かしこいに

海外から発信されたニュースの翻訳をしたり雑記とか

MMDモデルの規約に覚える違和感について

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私の過去の経験かつバイアスだらけな記事ですので、「ふーん」と受け流してくだされば幸いです。下記の記事は「今」ではなく「過去」に考えていたことです。そういえばこんな風に考えていたなあっていうのを思い出して書いてみました。ですので支離滅裂気味です。自分の考えを整理するために書き出した以外に他意はないです。

 

 

私もMMDで幾つか動画を作り投稿したことがありますが、MMDモデルの規約にたまに違和感を感じるんですよね。
ずっと思っているのですが、「臭いものには蓋?」のような感じがしてならないのです。「とりあえず常識の範囲内で守ってね」という、「うーん・・・?」といわざるを得ないような感じです。
つまり、誰もこの深遠な問題について議論しようとするどころか口に出すことすらしない、意図して避けようとしているような気がします。

 

確かに公序良俗というのは非常に難しい問題です。「刑法175条における猥褻表現の定義が曖昧であり、刑罰によって不合理的に表現の自由を制限してしまう恐れがある」*1という意味でも、公序良俗が如何に難しい問題であるかを裏付けています。

 

この問題から避け続けた結果、「今のMMD動画ちょっと違和感ない?」という人が出てくるのは必然です。だから規約や公序良俗関係の問題について触れている記事がニコ動内のブログでたまに投稿されているのです。そしてそれらのコメント欄において疑問符をつけざるをえないコメントを多く見かけます。そのコメント群を一括してくくってしまえば、ほぼ問題意識を感じられません。問題を問題と感じることすらしていません。


モデラーの方々には当然考えてほしいのですが、本気で考えようものなら公序良俗の問題を一生ものの職業にできるレベルで難しいのでこの問題に時間をかけられるわけないのは当たり前ですが。


といっても1番問題なのは視聴者なわけで。視聴者つまり需要者の多くは青年、つまり傾向的に性欲が強い人が多いわけです。そうなると当然MMDに於いても性的なものを扱う動画の需要が高いわけです。

下ネタやエロを混ぜたほうが当然彼らの多くは喜ぶ。多くの動画のコメントと動画ランキングの傾向を見ればよくわかる(偏見ですが)。

ニコ動内では公序良俗について考えないでいられる特権が与えられているのです。

これが常態化していれば、当然公序良俗について考える機会は生まれるはずないでしょう。構造的に公序良俗について考える余地を自ら捨てているのですから。というか既に常態化しているので、これからもモラルは危機に晒され続けるでしょう。

性欲を否定するわけでは断じてないのですが、ニコニコ動画内でのMMD系動画がどうあるべきかを判断する為のモラルについて考えて欲しいのです。

 

モラルがない場というのは悲惨極まりないですからね。黒人差別などは今となっては表での鳴りは潜めていますが、昔は酷いものでした。黒人が表部隊であまり差別されなくなっていったのは、多くの人々がそのままの意味で死に物狂いで戦った結果なのです。人を傷つけるような差別はしてはいけないことだというモラルを獲得した結果なのです(この問題について一面的な見方ではありますが)。

 

 ではどうすれば良いのか。どうすればモラル、つまり公序良俗について考える機会を生み出しすことができるのか。

一つ目はまあ、できなさそうですが、MMDを完全に有料にし、利用規約の厳格化に務める。彼らの多くは趣味でやっているはずです。そうなるとやはり時間をモデル以外のところには使いたがらない。だから規約で手を抜いてしまう。そこをどうにかしなければならないのですが、MMDを有料にすることであえてMMD動画製作者人口を減らして、本気でMMDをしたい人だけの少数精鋭の団体をつくってそこで議論をしてルールを決めるとうのが一つ目。これはまあ現実味がゼロですね。誰もが自由にというのがMMDの良いところなので。ですので一つ目の案は私も好きではないです。

 

2つ目、時の政治家に教育政策を改善させる。これが1番根本的な解決策ですね。モラルを高めるような教育政策に変え、ニコ動内でモラルについての議論を発生させる。たったこれだけなのですが、それが未だ上手くいっていないのが日本の問題なのです。これは少しだけ現実味がありますが、超長期的な話ですし、モラルそのもの中身が曖昧なので実現する前にニコニコ動画そのものがなくなるような気がします。

 

3つ目、ニコニコに規制させる。これはR18カテゴリある時点で希望がそもそもないです。

 

4つ目、モデラーたちが集まって公序良俗に関する共通規約を作る。

いわゆる憲法や法律みたいなものです。いくら感謝で溢れるとはいえ、個々のモデラーによって規約が少し異なると、ある使い方が大丈夫かどうかを個々に確認しなければならないのははっきり言って時間がかかって疲れる。共通の規約を作ったほうが間違いなく楽だし、新規モデラーもいちいち規約を考えなくてすむ。

ただし、包括的抽象的具体的にMMD全体の問題を見ないといけないし、関わる人の全てがコミュニケーションを緊密にとり議論を精緻に進めていく高度な論理能力が必要なので、一応の完成にもかなりの時間を要するでしょう。

 

 

ここまで4つ挙げてみましたが、結局のところ、誰かが問題提起をしなければ何も始まりません。ですのでMMD動画製作者の方々がこの公序良俗、モラルの問題について、自身の意見を発信している記事を見ると、なんだか嬉しくなります。

 

*1  渋谷秀樹,2014,憲法への招待 新版,p109-116を改変かつ簡単に要約した。気になる方は読んでみてほしい。憲法の勉強にもなりますよ。

 

若者はなぜ政治に目を向けないのか

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大学生の私が日々の大学生活の中でなぜ大学生等の若者達は政治に目を向けないのかを自分なりにぼんやりと考えてみましたのでここで述べようと思います。

 

・政治関係の話をすると白けるのでそもそも会話に出せず、政治についての意見交換が行われないことによって政治参画意識が形成されないから

 

友達との会話内でそもそも政治関係の話題になったことが一度もないです。やはり大学の授業の話題かアニメの話題が殆どですね。会話の途中で、仮にある話題が一段落してさあ次の話題に行こうっていう時でも凄く言いづらい雰囲気が殆どです。邪推かもしれないですが、意図して政治の話題を避けようとしているんですね。これはそもそも政治関係についてのニュースを知らなかったり、興味がなかったり等の原因があるのでしょうね。それに話が続かないような話題は会話が成り立たないので避けようとするのは当然ではあるのですが。これを解決するのはまあ難しいでしょうね、私一人程度の力では不可能でしょう。私は政治についての知識が乏しく興味を沸かせるような話なんでできないので、スムーズに政治の話題に移れたとしてもまともに話せるかどうか分かりませんからね。

 

 

・短期的快楽に負けてしまうから

 

 それはやはりよく言われているように、自分とはあまり関係のないものと見ているというのは大きいと思います。そりゃ選挙に行ったからと言ってすぐに何かが変わるわけでもないし、長期的に見ても果たして本当に変わるのかどうか分からない。そんな不確定な未来の為に時間を割くぐらいだったらだったら別にいかんでもええやん、そんなことよりアニメ見よ、ゲームしよ、カラオケ行こーぜって短期的快楽に走るなんてわかりきったことですよね。それにこれもよく言われていることですが、人間がそもそも短期的快楽に飲まれやすいというのは多くの人が共通して持っている性質だと思うのでそういう根本的な人間の性質というのもやはリ大きいでしょうね。

 「若い」のでまだまだ成長の過程にあり、不安定な時期にいるというのも大きいでしょう。大学生に限って言えば、サークルなど大学生でないと出来ないことが多くあるので、それに引っ張られるというのもやはり政治に目を向ける時間を奪い取ってしまう大きな要因の一つだと思います。大学生活の中で多くの人が睡眠や学習を犠牲にしてより多くの時間を遊びに使おうとするように、長期的利益を犠牲にしてそうするというのはいたるところで見られることです。かくいう私も午前2時ぐらいの深夜にこの記事を書いています。睡眠不足やサーカディアンリズムの崩壊というのは日常生活に悪影響しか与えないのにも関わらずこの記事を書いているのです。

 

 

・選挙に行かない、もとい政治に目を向けない事によって起こる損について受動的だから

 

 この項のインスピレーションはこの記事から頂きました。

www.shijo-street-weekend.com

その中でも特に

で、その選挙行かない若者損理論を先生が語られていたので、僕はこう反論してみました。

別に、損してもいいって思ってるんじゃないんですか、って。

選挙に行かない若者に「行かないと損だよ」って論法は意味あるのか - 四条通り週末.comより抜粋

この文章が凄く私の腑に落ちました。ああ、確かにそうかもしれないって。受動的というのはまさに日本人の多くが持っている姿勢でしょう。お上は絶対とか、上司の命令がおかしくても逆らってはいけないとか、先輩の言うことはちゃんと聞かないといけないとか。なんというか「窮屈」とも言えるし「楽」とも言えます。何かに、誰かに唯々諾々と従っているだけでよいのならこれほど「楽」なことは無いかもしれません。これを「楽な生活」と呼ぶ人がいてもおかしくはないはずです。だからこそ多少の損がある政治関係の事象が起こっても上が決めたことだからと特に逆らうことも無く従ってしまう。そして「まあそこまで悪いようにはならないでしょ。」と何処かで楽観している。

 「行かないと損だよ」と言うだけでは若者の殆どは靡かない。なぜなら日常生活に差し障りがない程度の損なら既に受け入れる意識が根本にあるからだ。そのような人たちにはその過剰な楽観を取り除けるだけの政治参画の意義を説き続けなければならない。といってもこの意識を変えるというのは非常に難しい。そもそも「意識を変える」ということはすなわち人格を変えるということであり、その人の生活そのものが変わることを意味するからだ。人は今いる場所が気持ち良いと、変わりたくないと思う。自分の考えを全否定されて気持ちの良い人間なんてそういないだろう。誰かの意識を批判し啓蒙するというのはその人そのもの変えることであり非常に骨が折れる。そんなことを一人ひとりやっていたら永遠に現状は変わらない。

 ではどうすればよいのだろうか。言ってしまえば誰もが政治に参画せざるを得ない社会を作るしか無いと思う。具体的にどうすればいいのかとかは全くわからないのだが、これ以外に良い案が思い浮かばない。

 

無気力の対処法について~読書が効く?~

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今もそうなのですが、時々無気力になります。なにもしたくない気持ちが湧いてくるのです。そしてもう疲れたからいいやと自分に言い聞かせ、やるべき日課を放棄してなにか別のことをやり始めるということがよくあります。

 

正確には「何もしてない」のではなく「別のことをする」なのですが、日課をやっていないという意味で何もやっていないということにしています。だってこのような状況においての「別のこと」といえばニコ動で面白い動画を漁ったり、スマホゲーですからね。私にとってはこれらは何もやっていないのと同然です。

 

自分でも何やってんだってよく思ってます。しかしどうしてか中々克服できない。自分なりに分析して改善方法を試してはいるのですがやはり、過去の体験というか記憶というか、体に染み込んだ行動の記憶といえば良いのでしょうか。それこそ中毒症状みたいな感覚といえば良いのでしょうか、

 

「やめちゃいなよーやめちゃいなよー遊んじゃいなよーうぇーいうぇーいうひーうひー」

 

という悪魔の囁きがきこえてくるのです。

といってもそもそもこのような誘惑が生じるのは、日課である英語学習を楽しみながらできていないからなのですがね。やはり英語そのものに関心があっても、それに習熟するための訓練ととなるとどうしても退屈な面というのはでてきてしまいますからね。そこの退屈な面と接している時に悪魔の囁きが聞こえてくるのです。そこを如何に面白くするのかというのが喫緊の課題です。そうすれば英語学習は面白くなり、こうした無気力状態も少なくなるはずですからね。

 

無気力状態を休養期間として英気を養うというのも一つの解決方法だとは思いますが、やはりどうしても踏ん切りが付かないんですよね。「一日中何もしなくて良いのか」っていう非難が聞こえてくるような気がするのです。大学生とはいえ時間には限りがある、だからこそ時間を無駄にするのは気が引ける、というありがちな理由で踏ん切りが付かないのです。

とりあえず本を読んで心を落ち着かせるというのも一つの手ですが、無気力状態の時はやはり何も考えずに得られる快楽、つまりニコ動やゲームに流れてしまいがちでなんですよね。ですからそもそも本を読めるだけの気力があれば日課を続けていくことができているはずです。ですのでこの手はNG。

と、今この文章を書いていて思い出したことがあります。つまり「何も考えずに得られる快楽」を予め設定しておいて、それをできるだけ無気力状態から離れることができるようなものにしておくという方法です。私の場合、ラノベや軽めの小説とか写真を取りに行くということでしょうか。前者はサラサラと読めてあまり頭を使うことがなく、それでいて「本」であることに変わりはないので活字を通じて無気力状態を脱すると言った感じでしょうか。一つ上の「本を読んで心を落ち着かせる」の「本」はここでの「本」とは違って新書やノンフィクションや専門書などの普段私が読んでいる本気で考えて読まないとそもそも理解できないような「本」のことです。後者は構図や被写体を考える必要はありますが、例えば淀川に行ってその雰囲気を感じるだけでも大変リラックス効果があるので、これもやはり無気力状態から脱するのには有効な手段ではないかと思います。

 

とはいえ、上記の対処法を試して上手く無気力状態を脱しても数日後とか数週間後にはまた無気力状態に陥ってしまうという無限ループが最近の傾向でしょうか。こうして文章化することもどこがいけなくてどこをどう治せばいいのかという事が分かるので必須で、無気力脱出には役立つとは思います。が、それで対処すべき場所がわかり、対処法を取り敢えず考え、それを試し、ある程度は上手くいっても、やはり無限ループからは抜け出ることができないでいるのが今です。

 

ですので、最近はこのループを受け入れるしかないんじゃないかとか、このループを如何に上手くコントロールできるのかとか、そもそもコントロールできるのかといったことを考えたりしています。

 

つまり、まだまだ手探り状態です。そこでまあ自分でずっと考え続けるというのもありですが、ここで先達の知恵を借りるというのもやはり取るべき方法の一つでしょうか。

先達の知恵と言えばやはり本が無難でしょうか。ではどのような本を読めば良いのでしょうか。

「それはやはり自己啓発本です!!!」

といきなり断定するのは待ちましょう。ここで焦っては今後の解決策考案時に躓いてしまう元になります。よく考えて自己啓発本の中で知恵を探すかどうかを決めましょう。

よく自己啓発本は読むなとか一冊で良いといったような言論をよく見ますが、正しく情報処理ができてちゃんと実行できるなら別に何冊でも読めば良いと思います。本当にできる自信があれば、ですけど。残念ながら私はだめでした。高校時代、「ヒトを動かす」「7つの習慣&それの漫画版全冊」「嫌われる勇気」「ニューアース(この本は自己啓発ではないような)」などなど有名どころを何冊か読んだのは良いですが、「嫌われる勇気」の「アドラー心理学」以外は見事に読んだだけで終わりました。まあ、アドラー心理学が自分にハマったのは多くの自己啓発本を読んだおかげではありますがね。これだけハマった上に4周もしたので今も頭の中に残っています。つまりここから言えることは、自分にあった本を見つけるという目的であれば自己啓発本をあさってもかまわないということでしょうか。私の場合運良く数冊で自分に合ったものを見つける事が出来ました。しかし、やはり自分に合ったものを見つけるというのは時間がかかると思うのでどこかで妥協しなければならないのでしょうね。

 

まあ、現在は自己啓発本というより寧ろ、現実に戻る、つまり無気力でいたくないと思える本を読んだりしています。これは私が思うにここまでに述べた中で1番効くような気がします。つまるところ「ショック療法」と言えば良いのでしょうか。このような本は人によって違ってくると思います。私の例をいくつかあげますと、「銃口」「面白くて眠れなくなる進化論」「スリープレボリューション」「子どもは40000回質問する」「欲望について」「愛するということ」「茶色の朝」「夜と霧」「良き人生について」「歴史とは何か」

あたりでしょうか。ここに挙げたどの本の内容そのものも非常に面白かったのですが、それに加えて現実に戻りたいと思えるような気持ちになったんですよね。はたしてなんでそう思えるのだろうかと考えていた所、共通点のようなものが見えたような気がしました。つまり、過去を顧みて未来をより良くするというような解釈ができる本ならなんでも良いのです。

 

このような本を読むと自分もなんだか「やらねば」というような気分になるんですよね。ミラーニューロンのおかげでもあるのでしょうかね。あ、一般読者向けに優しく書かれた脳科学系の本も無気力の対処法の一助となるのでおすすめですよ。例えば「快感回路」「進化しすぎた脳」などですかね。

 

ああ、この記事を書く時間を日課に費やせば良かったかな・・・今日はまだ日課の一つも終わってないんですよね・・・。まあ、これも無気力対処の一貫ということでひとつ・・・。