「キャシャーン sins」全話視聴後の感想:精一杯生きる
目次
このアニメを見ることになった経緯
最近、「インフィニティフォース」という、タツノコプロのヒーロー達がアベンジャーズみたいに集結して戦うアニメが今期で放送されている。
ニコニコ動画でもこのアニメが無料で配信されており、私はいつもニコ動で見ている。ガッチャマン、ポリマー、キャシャーン、テッカマンの四人が主役級キャラとして活躍しているが、劇中ではキャシャーンは重い雰囲気を醸し出しているように感じた。
例えば、2話の人間ではないという発言、3話でたけしの独断専行を痛みを与えて阻止したシーン、これらが凄く気になっていた。
私は4人が登場するアニメを見たことは一切ない。だからキャシャーンの言葉に一体どれほどの重みがあるか分からなかった。
分からなかったこそ気になって、これらのシーンをきっかけとしてキャシャーンのアニメを見てみようと思った。
それで「キャシャーン」で調べてみた所、「キャシャーン sins」が約10年前に放送されていることがわかった。私はいきなり何十年前のアニメを見るより、まずこれを見てからまた判断しようと思って見ることにした。
印象に残ったストーリーの断片的なあらすじ
1話から24話まで一気に見た。
「永遠の命を持っていたはずのロボットに突然『滅び』つまり寿命が与えられた。部品の交換はできず、ただ己の身が朽ちていくの待つのみ。」(ロボットになぜ五感をあるのか、なぜ意識があるのかの技術的問題はここでは重要ではない。)
劇中ではこの状況に対する様々なロボットの回答を提示してくれた。死を受け入れるもの、永遠の命を求めるもの、希望を追うもの、なにかを残したいと願うものなど、生きていると実感したいものなど、様々なものがいた。中には人間の持つ恋愛感情に目覚めるものもいた。
死への恐怖は必ず死ぬと知っている人間にすら巨大なものとしてあるのに、本来死ぬはずのないロボットが突然寿命を設定されたらどうなるのだろうか。まさに青天の霹靂、人間に当てはめれば、突然あと余命は半年だと宣告されるようなものだろうか。
こんな荒廃しきった状況の中、キャシャーンだけは不死身であった。その特異性は彼自身を苦しめた。しかし、旅を通じて苦しみつつも学んでいった。死ぬとわかっているからこそ、今ある生を精一杯に生きていくこと、命を燃やすことを美しいと感じた。それこそが「ただ命がある」のと「生きる」のとの間にある違いだと知った。永遠の命に「死」はない、つまり「生きる」こともない。そのような「ただ命がある」状態では死んでも生きてもいない、あまりにも悲しい状態であると知り、癒やしは救いにはならないと知った。
といってもやっぱり好意を抱いていた人物が死ぬのは嫌、だからキャシャーンはリューズの最期の間際に「死ぬな」と言った。そしてルナに死を忘れさせるなと告げて去っていった。
感想
確かにキャシャーンは実体験として生と死を理解していないということは間違いない。
しかし、分からないなりにも共感する努力、理解しようとする努力はしている。私は劇中では彼ほどに優しい者はいないと思った。それは確かに生と死が存在しない悠然さからくるものであるかもしれないが、その気になれば世界を簡単に支配できるのにそれをしなかった。むしろ自分を忌むべき存在としてい見ていた。
私は彼の優しさに胸を打たれた。現実世界ではこのような者は存在しないのだろうか。余りにも強く、余りにも優しい。そんな人間が現実にいたらと思ってやまない。現実には様々な犯罪が横行している。私の興味範囲では特に性犯罪が惨たらしいものだと思っている。「魂の殺人」。幸い劇中ではロボットが主に登場していたのでそのような犯罪はでてこなかったが、殺人や窃盗は至る所で行われていた。キャシャーンはそれを止める側ではあったけれども、行う側で合ったらと思うとゾッとする。まさに秩序がない世紀末における救世主のようであった。
私はこのアニメに感銘を受けた。今を精一杯生きるからこそ意味のある人生を送れるのだと思うことができた。全体的に暗く重い設定のアニメではあったが、希望はあった。
ストーリーの道筋が人間の人生みたいで生きているように感じられて、作品そのものが生きているように思えた。
キャシャーンはこれからも観察者としてこの世界を見守ってくれる。そして下のブログの最後にある
リンゴの正体。それは成長し、限りある「命」を持った最初のロボ
の記述。彼女は自身のような存在がこれから増えることを願っている、フレンダーと一緒に。
恥ずかしながら、私は「私は恐らく成長し、限りある『命』を持った最初の・・・」の「の・・・」に続く部分がよくわからなかった。
私はロボットが子どもを作ることができるようになって、初めてリンゴが子どもを作ったのかと思っていた。「持った」を「お腹の中に授かった」と解釈していた。だから「の私の子ども」なのかと思っていた。レダはロボットによって新たな生命を作ることを望んでいた。それが実現したのかと思っていた。
しかし、このブログでの記述での方が信憑性が高いと思われる。
終わりに
アニメで泣いたのは久しぶりだった。
一気に視聴した後ボーーッとしていたせいでどこで泣いたかもう覚えていないが。このアニメは感情移入次第でどのシーンでも泣ける気がする。殺人をしたり、窃盗をしたり、誰かを襲ったりするモブロボットたちも、このアニメの中では荒廃しきった状況が産んだ悲劇の子であった。
そう思うと本当に悲しい世界を上手く表現できていると思う。
この作品は素晴らしかった。
京都市動物園の動物たちの写真
先日10月1日に京都市動物園で動物の写真を500枚くらい撮ったので、そこから選んで公開しようと思います。
↓まずはライオンから。もうおじいちゃんのライオンだからか、睡眠中にはなんとも愛くるしいお顔になっています。
↓下を見るライオンと檻。「下を見る」って色々と便利な妄想ができます。少し悲壮的な感じがします。
↓ただの可愛い猫にしか見えませんね。
↓暗いものを背負っているような感じ。
↓次はアムールトラ。真正面から睨まれると怖いですねやっぱり。
↓また睨まれて・・・微妙にずれてるかな。
↓またです・・・。
↓どこか遠くを見ているように見えますが、一体何を見ようとしているのでしょうか。
↓よく目があいますね。
↓微妙に目があってない。けどかっこいい。
↓牙と少したれている涎が恐ろしい。今にも食いちぎられそう。
↓次はジャガーさん。小さな部屋にずっといました。時々上を見上げていましたが、上にあるのは普通の天井だけです。暇だから天井を見ていたのでしょうか、それともなにか別のことででしょうか。
↓フェネック。鼻を舐めています。かわいい。
↓丸まって眠っています。か わ い い
↓からだをかいているフェネック。なにをしてもかわいい。
↓ブラックジャガー。たまたま目が合いました。檻があっても怖いものは怖いです。
↓黒くなっているからといって斑紋がないわけではないんですよね。薄っすらと見えます。
↓レッサーパンダ。
↓ミーアキャット
↓なぜか間に顔を突っ込もうとしている山羊。
↓真正面からのキリン。
↓アカゲザルさん。なんだか哀愁を感じる。
↓フンボルトペンギン。近くから見ると面白いですね。
↓ワシミミズク。じろりと睨まれました。
↓ムササビ。「なに覗いてんねん」みたいな顔をしています。
↓ニホンリス。端っこで隠れながらどんぐりを食べている姿がかわいい。
アニメ「はじめてのギャル」から考える「理想と現実」
当記事では、アニメ「はじめてのギャル」の全話を見てからの感想と、当アニメを通して考えた理想と現実について述べていきます。。
始まりはニコニコ動画で一話が無料配信されていたのを、なんとなく見たことから始まりました。当時は八女さんかわいいなー程度にしか思っていませんでしたし、どこかで見たことがあるようなありふれてそうな展開だなあと思っていました。
しかし、話数を追っていく内にその評価は変わっていきました。最終話を見た後ではじぎゃるのストーリーを頭のなかで現実と照らし合わせてみたところ、この作品には現実と理想という2つの要素があるのを感じました。
当然、原作が漫画ですから理想の部分が多いのは言うまでもないです。しかし、ところどころで現実的な側面が出てきますし、それが物語の進行要素として重要な役割を持つこともあります。前半ではジュンイチの友達に八女さんへの告白を強制させられたり、後半ではジュンイチの少し卑屈な考え方を口にして八女さんを傷つけてしまったりなどですね。
これらは十分に現実でも考えられます。なんせ私自身、罰ゲームでの強制告白をさせられてことがありますし、相手の気持ちを汲み取れきれずに的外れな発言で相手を傷つけてしまったことがたくさんありました。
理想の具体的部分は挙げればキリがないでしょうから、ここでの言及は控えておきます。しかしあえて言うのなら、作者の考える読者の理想か、作者の理想の2つから端を発するものでしょう。
この作品の場合で言えば、理想と現実のバランスで言えば、6:4のような気がします。
余りにも理想的な部分が多いように思えたのに、なぜか現実的な感じが結構したんですよね。現実という骨に理想の組み込みという肉付けしていったという感じがするんですよね。
随所で現実のような感覚を残すからこそ、ありふれた理想のはずなのにその理想が際立って見える。理想と現実がこのアニメではよく見える。そんな気がします。
そして後半になればなるほど彼女彼らは現実の人間らしくなっていくのだが、理想がここぞとばかりに現実に色を加え、理想と現実を混ぜ合わせたハッピーエンドを作り出す。そしてジュンイチと八女さんは幸せなキスをして終劇。
言ってしまえば、ジュンイチは基本的に性欲に従って動いているだけでした。まさしくどこにでもいそうな高校生といったところです。しかし、アニメなのでどこにでもありそうな、それこそネットやゲームやエロにはまって女友達の1人もできないような高校生活で終わるはずはありません。作品ですからね。彼には輝かしいストーリーが用意されています。
どうして私たちはこのようなこの作品で見られるような「誰かと幸せになるという理想」を追い求めるのでしょうか。昔からよくある話でしょう。ボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイなど、定式化されていますしね。
私たちはこの理想を「ほぼ無条件に」抱いています。
アリストテレスが言うように確かに私たちは1人では生きていけないという意味で社会的存在です。しかしだからといってそのような理想を抱かなければならないわけではないでしょうがやはりこのような理想を持つものがより良く子孫を残すことができたのでしょう。それに所属する社会が良いと掲げるこの理想を信じた者も同様でしょう。社会に上手く適応できる上に肉食系の人間の方がより存続しそうなのは容易に想像できます。
この理想に苦しんでいるのが羽柴ジュンイチであり私達でしょう。ジュンイチさんの方は一話で救済されていますが、私たちは下手をすると死ぬまでこの問題に足をすくわれ続けるでしょう。
「その年齢でまだ結婚してないのか」「お前の容姿じゃ結婚は厳しいだろう」「その年収で過程を持てるのか」「性格的に結婚は諦めろなど」
など、周りから延々とお説教を聞かせれる未来というのもあるかもしれません。しかし「現実は小説よりも奇なり」とあるようにそれはそれは面白い人生を歩む方もおられるでしょうが、ここではそれは話題としません。
「どうして、この理想を抱かなければならないのか、別に抱かなくたってよいのでは」と問うと「それは彼女ができないから言っているにすぎないただの言い訳だろう」おっしゃられるかもしれません。
それはある意味で正しいです。私は彼女なんて一度しかできたことがありませんし、その彼女との関係も数日で自然消滅しましたから、恋愛経験は0に等しいです。恋愛について一切知らないのに恋愛について疑うのはおかしいというのは十二分に理解できます。
誰かと幸せになるという理想は、その文言通りにただ幸せな気持ちでいられるからそうすべきとされてきたというのもあるでしょう。それ以上でもそれ以下でもない。だからこの理想について疑うとすぐに反発の声が挙がってくる。確かにそれは分かります。
しかし、アニメや漫画などで暗にこの理想を主張して回るがゆえに、負い目を感じてしまう人というのは現れ続けるでしょう。
「アニメの中で彼ら彼女らはあんなにキラキラしているのにこの現実とは一体なんだろう。」と考え込んでしまう人は少なからずいるでしょう。作品はあくまで虚構、一つの理想、一つの架空の世界でしかないです。ですから現実に照らし合わせて考える必要はない。しかし考えてしまう。
確かに現実とリンクさせているものもあるでしょうが、忠実に現実を再現するのは至難の業で、できる人は限られているでしょう。現実は余りにも複雑怪奇ですからね。そういうのが出てくるまでに、このような理想を暗に秘めた作品が川が反乱するがごとく溢れかえっているでしょう。
それこそ劇中での坂本慎平が何回も羽柴ジュンイチに怪しげなものを根拠に色々と吹聴して、負い目を感じるような悪ノリをさせようとしていたように、いつの間にかに暗に込められた理想に反応し、負い目を感じるなど現実に対して負の感情を抱いてしまう人がいても全くおかしくないでしょう。
だからアニメや漫画など作品は規制されるべきだなどと、わけの分からない事を言うつもりはありませんが、そういう側面もあるというのは間違いないでしょう。アニメや漫画を見て特に何の影響を受けない人というのも当然いるでしょう。しかし、その逆の人もやはりいるというのもおかしくありません。
現実に負の感情を抱く人たちは一体どうやってそれを取り除けばよいのでしょうか。私には皆目検討が付きません。