かしこいに

大阪府在住の大学生。写真と雑食読書と。

アニメ「はじめてのギャル」から考える「理想と現実」

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当記事では、アニメ「はじめてのギャル」の全話を見てからの感想と、当アニメを通して考えた理想と現実について述べていきます。。

 

始まりはニコニコ動画で一話が無料配信されていたのを、なんとなく見たことから始まりました。当時は八女さんかわいいなー程度にしか思っていませんでしたし、どこかで見たことがあるようなありふれてそうな展開だなあと思っていました。

 

しかし、話数を追っていく内にその評価は変わっていきました。最終話を見た後ではじぎゃるのストーリーを頭のなかで現実と照らし合わせてみたところ、この作品には現実とアニメという理想という2つの要素があるのを感じました。

当然、原作が漫画ですから理想の部分が多いのは言うまでもないです。しかし、ところどころで現実的な側面が出てきますし、それが物語の進行要素として重要な役割を持つこともあります。前半ではジュンイチの友達に八女さんへの告白を強制させられたり、後半ではジュンイチの少し卑屈な考え方を口にして八女さんを傷つけてしまったりなどですね。

これらは十分に現実でも考えられます。なんせ私自身、罰ゲームでの強制告白をさせられてことがありますし、相手の気持ちを汲み取れきれずに的外れな発言で相手を傷つけてしまったことがたくさんありました。

理想の具体的部分は挙げればキリがないでしょうから、ここでの言及は控えておきます。しかしあえて言うのなら、作者の考える読者の理想か、作者の理想の2つから端を発するものでしょう。

 

この作品の場合で言えば、理想と現実のバランスで言えば、6:4のような気がします。

余りにも理想的な部分が多いように思えたのに、なぜか現実的な感じが結構したんですよね。現実という骨に理想の組み込みという肉付けしていったという感じがするんですよね。

 

随所で現実のような感覚を残すからこそ、ありふれた理想のはずなのにその理想が際立って見える。理想と現実がこのアニメではよく見える。そんな気がします。

 

そして後半になればなるほど彼女彼らは現実の人間らしくなっていくのだが、理想がここぞとばかりに現実に色を加え、理想と現実を混ぜ合わせたハッピーエンドを作り出す。そしてジュンイチと八女さんは幸せなキスをして終劇。

 

言ってしまえば、ジュンイチは基本的に性欲に従って動いているだけでした。まさしくどこにでもいそうな高校生といったところです。しかし、アニメなのでどこにでもありそうな、それこそネットやゲームやエロにはまって女友達の1人もできないような高校生活で終わるはずはありません。作品ですからね。彼には輝かしいストーリーが用意されています。

 

 

どうして私たちはこのようなこの作品で見られるような「誰かと幸せになるという理想」を追い求めるのでしょうか。昔からよくある話でしょう。ボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイなど、定式化されていますしね。

私たちはこの理想を「ほぼ無条件に」抱いています。

アリストテレスが言うように確かに私たちは1人では生きていけないという意味で社会的存在です。しかしだからといってそのような理想を抱かなければならないわけではないでしょうがやはりこのような理想を持つものがより良く子孫を残すことができたのでしょう。それに所属する社会が良いと掲げるこの理想を信じた者も同様でしょう。社会に上手く適応できる上に肉食系の人間の方がより存続しそうなのは容易に想像できます。

 

この理想に苦しんでいるのが羽柴ジュンイチであり私達でしょう。ジュンイチさんの方は一話で救済されていますが、私たちは下手をすると死ぬまでこの問題に足をすくわれ続けるでしょう。

「その年齢でまだ結婚してないのか」「お前の容姿じゃ結婚は厳しいだろう」「その年収で過程を持てるのか」「性格的に結婚は諦めろなど」

など、周りから延々とお説教を聞かせれる未来というのもあるかもしれません。しかし「現実は小説よりも奇なり」とあるようにそれはそれは面白い人生を歩む方もおられるでしょうが、ここではそれは話題としません。

「どうして、この理想を抱かなければならないのか、別に抱かなくたってよいのでは」と問うと「それは彼女ができないから言っているにすぎないただの言い訳だろう」おっしゃられるかもしれません。

それはある意味で正しいです。私は彼女なんて一度しかできたことがありませんし、その彼女との関係も数日で自然消滅しましたから、恋愛経験は0に等しいです。恋愛について一切知らないのに恋愛について疑うのはおかしいというのは十二分に理解できます。

誰かと幸せになるという理想は、その文言通りにただ幸せな気持ちでいられるからそうすべきとされてきたというのもあるでしょう。それ以上でもそれ以下でもない。だからこの理想について疑うとすぐに反発の声が挙がってくる。確かにそれは分かります。

 

しかし、アニメや漫画などで暗にこの理想を主張して回るがゆえに、負い目を感じてしまう人というのは現れ続けるでしょう。

 

「アニメの中で彼ら彼女らはあんなにキラキラしているのにこの現実とは一体なんだろう。」と考え込んでしまう人は少なからずいるでしょう。作品はあくまで虚構、一つの理想、一つの架空の世界でしかないです。ですから現実に照らし合わせて考える必要はない。しかし考えてしまう。

確かに現実とリンクさせているものもあるでしょうが、忠実に現実を再現するのは至難の業で、できる人は限られているでしょう。現実は余りにも複雑怪奇ですからね。そういうのが出てくるまでに、このような理想を暗に秘めた作品が川が反乱するがごとく溢れかえっているでしょう。

 

それこそ劇中での坂本慎平が何回も羽柴ジュンイチに怪しげなものを根拠に色々と吹聴して、負い目を感じるような悪ノリをさせようとしていたように、いつの間にかに暗に込められた理想に反応し、負い目を感じるなど現実に対して負の感情を抱いてしまう人がいても全くおかしくないでしょう。

だからアニメや漫画など作品は規制されるべきだなどと、わけの分からない事を言うつもりはありませんが、そういう側面もあるというのは間違いないでしょう。アニメや漫画を見て特に何の影響を受けない人というのも当然いるでしょう。しかし、その逆の人もやはりいるというのもおかしくありません。

 

現実に負の感情を抱く人たちは一体どうやってそれを取り除けばよいのでしょうか。私には皆目検討が付きません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のフォトコンテストとの付き合い方

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 目次

初めてフォトコンに応募してみた。

一眼レフのD3300を購入してから大体一年が経ちました。それでせっかくだし簡単に応募できるものに参加してみるのもありなんじゃないかと思い、初めてフォトコンテストに応募してみました。

具体的にはデジキャパ!の月例デジタルフォトコンテストに応募しました。

このコンテストはネットでさくっと応募できるので、受付から終了までものの数分しかかかりませんでした。

それよりも写真の選定に時間がかかりました。ちなみにトップの画像は応募した画像ではありません。

ちなみに、結果は11月に発表されるそうです。

 

フォトコンと上手に付き合っていく

ここから写真初心者によるフォトコンとの付き合い方を自分なりに考えた結果を記していきます。

 

私が写真を撮る目的

確かにあっと驚いたりうっとりしてしまいそうな写真は素晴らしいの一言に付きます。しかし、それはあくまでプロの仕事であって私のような初心者が意図して取れるようなものではありません。

一年が経ったからと言ってまだまだ圧倒的に修行が足りず、それでもせっかくだからとフォトコンテストに応募しました。

 

そもそも私が一眼レフを買った理由は、自分が訪れた所や様々な行動を写真という媒体を通じて残したいという欲求からです。

 

フォトコンによる私の目的意識の動揺

そこには本来自己完結的な目的しか含まれていません。このブログで写真を公開しているのも、本質は技術向上の為であり、誰かに見てもらう為ではありません。

このフォトコンテストに応募した後で気づいたことは、この目的がブレ始めているのではないかということです。

フォトコンテストは写真という武器で誰かと戦う事を意味します。つまり目的とは完全に相容れないわけです。しかし、一時の欲求に負けて応募してしまった。確かに偶に道からそれてしまうことはありますし、人間故に仕方ないことです。他の例を上げれば、英語がそうです。私の英語学習はのっけから不安定でした。ですから、続いたり続かなかったりを繰り返して今はもう学習をしていません。

 

 

kasikoini.hatenablog.com

kasikoini.hatenablog.com

kasikoini.hatenablog.com

 

この3つの記事を読めば私が英語学習に対していかにブレブレな態度しか取ってこなかったかがわかると思います。

写真は英語と似たような結末になろうとしています。

幸い、私の写真の目的がはっきりしているから続かないということはないが、それがいつ別の目的へとすり替わってしまうかは分かりません。事実今日フォトコンテストに応募しました。つまり、自分に受けるためではなく、他人に受けるために写真を撮るという目的に変わりかけていたのです。だからといってフォトコンテストを貶すわけでは絶対になく、単純に私の目的とフォトコンテストとが相容れないと言っているだけです。

 

フォトコンと上手く付き合う方法

しかし、目的を抜きにして言えばフォトコンはメリットが多いです。賞を貰える可能性があったり、コンテストを通じて技術の向上を狙えたり、発見があったりと、それこそネットで探せばいくらでも出てくるぐらいにはメリットが有ります。しかし、目的とは相容れないのです。

正直、もったいない気持ちはあります。良さそうな写真が撮れたなら、それを使って応募してみたいという気持ちは一応あります。

ですから、本来の目的から絶対に離れない事を前提にフォトコンテストに参加する自分の条件を作りましょう。

今思いつく限りでは、

「フォトコンに応募するとしても、その為に写真を撮ることはせず、日々生活する中で撮った写真で応募する。」

というのが現状でのベストだと思います。フォトコンテストを舐めるなと言う声が聞こえてきそうですが、今のところ私にとってはこれがベストなので許してください。

 

私にとっての写真

「人生の一部始終であり完全な自己満足」

これが基本です。アマチュアの典型ですが、ただの趣味なのでこれで良いのです。

 

 

 

2017年8月30日 天王寺動物園で撮った動物たちの写真

先月初めて天王寺動物園へ行ってきましたのでそこで撮った写真を厳選して公開しようと思います。撮影した動物の種類は約125種類。合計で約800枚撮りました。

 

↓大きなあくびをするジャガーさん

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↓睨まれるとやはり怖い・・・

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↓ぐったりしているアムールトラさん

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↓ぐったりしているチュウゴクオオカミさん

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↓やぎさん。虹彩が横長なのが特徴的です。この画像はyourshotにも投稿しています。

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↓人みたいに見えるマレーグマさん

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↓コーンに頭を突っ込むホッキョクグマさん

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↓アタマがないように見えるシロフクロウさん

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↓胸毛がハート型に見えなくもないライオンさん

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↓都会と動物園の対比のつもり。この画像はyourshotにも投稿しました。写っている動物はムフランです。

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フンボルトペンギンさんの横顔

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↓なんだか威嚇されてる?この画像はyourshotにも投稿しました。

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↓餌をもらってからの流れを4枚で紹介:一枚目

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↓キャッチ:二枚目

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↓リリース:三枚目

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↓個々によって魚の好みが違って、選んで食べているらしいです。だからこの個体はこの魚は気に入らなかったようです。:4枚目

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アミメキリンさんの目

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↓ライオンの皆さんは昼寝中

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↓こっちを見てます。怖い・・・

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↓コッチを見るブチハイエナさん

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↓皆で寝てるオーストラリアアシカさんたち

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↓おおきなあくび

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アジアゾウさん。凄く器用です。

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漠然としたビジネス目的の英語学習はやめよう

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日本では学校や英会話スクールなど様々な所で英語が教えられています。

「グローバル人材」「グローバル社会」「国際化」

などなど、私達大学生にとっては実に新鮮で刺激的で向上心が溢れてきそうなワードを駆使して、教育機関は英語学習を推進しています。

ひとえに英語といっても、その学習の目的は千差万別です。

ビジネスのための英語であったり、学問としての英語であったり、誰かとただ純粋にコミュニケーションを取るための英語であったりなど実に様々な目的があります。目的が違えば学習の最終到達点も人によって違います。

近年の潮流を見ますと、英語を学習する多くの人はビジネスのために英語を学習しています。TOEICの存在とその受験者数の多さがまさにそれを裏付けています。TOEICの公式サイトで配布されている資料によりますと、2016年度こそ少し減っていますが基本的には増加傾向にあります。

 

大学生の言う「就職してから使うかもしれないから英語を勉強している」という言葉ほど危ない言葉はそうないと思います。

 

私たちは大学生です。当然働いたこと、つまり社員としての労動経験なんてあるはずがありません。

ですから大学の教授の英語なんてできて当たり前というお言葉とか、大学の事務員たちのグローバル人材になるために英語を勉強しようというお言葉とか、ネットの掲示板で英語ができると有利になるぞという書き込みとか、現実の会社からの要請ではなく、間接的に様々な媒体から影響を受けて英語学習をしているのです。中には明確な目標がある人も当然います。英語教師やキャビンアテンダントなど、明らかに英語が必要な職業を目指している人がそれでしょう。しかし、そのような明確な意思を持って英語を学習している人が一体どれだけいることでしょうか。

大学生達の多くは実際の労動においての英語の使用について漠然としたイメージしか抱くことしかできないのです。

働いたことがないのですから当然です。就職してから使うかもしれないから、といった漠然とした気持ちだけで英語学習をするしかないのです。このような曖昧な目的で英語学習を継続できるのでしょうか。

確かに英語ができて海外駐在などができれば確かに給料は高くなるとは思います。しかし、それを明確な目標として定めれば、英語学習を継続できるのでしょうか、疑問です。

それすらも漠然としたイメージにすぎないのですから。実感のない漠然としたイメージのみで莫大な時間を英語学習に費やせますか。

 

大学や企業は、大学生に対して、ビジネスにおいて英語を使うという場面を実感できるような体験を提供し、ビジネスで英語を使うということに明確なインセンティブを与え、ビジネスのために英語を学習するということの意味を明確にした方が良いと思います。でなければ漠然としたイメージからの不明確な目的を持ったがために英語学習を挫折してしまう人が今後も量産され続けます。

 

だから大学の言う「グローバル人材」「グローバル社会」「国際化」などのワードを効くたびに少し空虚な響きがするのをいつも感じるのです。

このような甘美な匂いのするワードに負けて英語学習を始めてしまう方は間違いなくいます。そして挫折します。当然です。英語学習の目的の根幹が空虚なワードなんですから。砂上どころか、空中の楼閣です。地面へ一気に落ちていきます。ある程度の時期が来ると、何のために私は英語学習をしてるんだろうと考える時期がやってきます。そして終わりが来ます。

 

ですから、今から英語学習を始めようとしている人たちは、自身の目的が明確であるかを絶対に確認してください。明確でないのならやめるべきです。英語ができないからと言って人生が不利になるわけでは決してありません。

そして既に不明確な目的を持って英語を学習している人は、今一度自身の英語学習の目的について問い直してください。自分で新たな明確な目的を作るか、英語学習をやめるかの二択なような気がします。

 

上記の偏見の大体のベースはこの記事を見ると良いです。私の場合ですと、最初は漠然とビジネスのために英語学習を始めたが挫折して、その後は英語そのものに面白さを見出すといった流れですね。今は明確な目標がないので英語学習をしていません。

kasikoini.hatenablog.com

 

 

 

4年間「納豆」を食べ続けてわかったこと

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はじめに

高校あたりから大学生ぐらいまでの期間、つまり男の私が四年間納豆を食べ続けて感じたことについて語っていきます。

わかったこと

かかる費用の高低

まず、食べる為にはまず納豆を買ってこないといけません。つまり、当たり前ですがコストがかかります。確かに納豆は3パックで100円程度とあまり食品としては高い値段ではありません。しかし、何か健康的な効果を得たいのならば、継続して摂取をしなければ意味がありません。

つまり毎日食べなければならず、継続的にコストが発生します。(当たり前ですが・・・)

普段食べている野菜の上に納豆をプラスをした場合、

例:3パックで108円の納豆を毎日1パック食べた場合

 365÷3=121.6(以降四捨五入)

122×108=13,176円 ・・・一年でかかるコスト

13,176÷12=1098円 ・・・一ヶ月でかかるコスト

となります。

この数字を見て安いと思うなら納豆を食べ始めても良いのではないでしょうか。私は今日までの四年間、つまり高校生のあたりから食べ始めたので大体5万円くらい支払っていることになります。

 

目に見えて分かるような効果はなかった

私が納豆を食べ始めた理由は、葛西紀明さんがテレビで「納豆すごい」と言っているのを見て触発され、それから納豆について検索して納豆の成分が良いと知ったからです。

それだけなら良かったのですが、あまりリテラシーがなかった自分ですから納豆を盲信してしまったんですよね。「納豆を盲信していた」なんて変な響きですが、「こんなに素晴らしい納豆さえあれば他に野菜なんていらないんじゃないか」などと意味不明な万能感を抱いてしまったんですよね。わけもなく万能感を抱いてしまうような高校生が私でしたので、納豆にもこれが派生してしまいました。中二病の一種です。

かくして、納豆は食べるけど他の野菜は一切食べないということを実践していました。 

そうなるとどうなっていったか。

栄養不足になって、肌荒れしたりニキビが増えたり体臭まで何だか臭くなったような気がします

当然大豆だけで全ての必要な栄養を十分に補えるはずありませんからね。

ここまで行って初めて自分の愚かさを知りました。やっと夢から覚めたような感じでした。

それからは野菜も取りつつ納豆を食べ続けるようにしました。

しかし、納豆しか食べていなかった時の状態からは回復した後から、いつまでたっても以前の食生活で普通に野菜を食べていた時以上の健康状態になれたとは思えませんでした

 

「納豆だけ」は当然だめ

これが全てです。自分がより健康になれたか自分で知ることはできません。せいぜい今日は気分が良いなくらいではないでしょうか。わからないからといって健康診断を何回も頻繁に受けるというのもあまり気分がすすまないでしょう。だから日々バランスの良い食事、そして他の生活習慣もより健康的にして自分でできることはやって、その上で定期的な健康診断を受けるのが良いと思います。

話を戻します。納豆は確かに栄養価が高い非常に優れた食べ物です。しかしそれに安住してはいけません。

あくまでひとつの食品に過ぎませんからね。過度の期待は禁物です。陳腐と言われても仕方ありませんが、やはりバランスが大事なのです。できる範囲内で様々な健康的な食品を継続的に組み合わせを考えながら食べていく、現在は結局のところこれが良いのです。

具体的には、緑黄色野菜にプラス納豆を加えるなど、そういう風にプラスアルファとして捉えるほうが良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盗撮している人を発見したが足が震え体が凍って動けなかった

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去年、いつものように大学へ電車で通学していたある日、突然それは起きました。

 

クロスシートの電車内で、普通のサラリーマン風の服装で40~50代くらいの男性が、隣の席の若い女性の下半身をスマホで盗撮していたのです。彼のスマホを持つ両手は非常に震えていました。カメラの音が出る穴を必死になって抑えながら女性の下半身をパシャパシャと何枚か撮っていました。事はものの数十秒で終わりました。

 

その女性は寝ていないので盗撮されていることに気づいていませんでした。シートは満席で私だけが立っていたのですが、他の乗客は私の立ち位置が悪かっせいで恐らく誰一人盗撮に気づいていなかったと思います。つまり、盗撮犯に対処できるのは私だけでした。

私が警察官であったなら即現行犯で逮捕していたでしょう。なんせ私の目の前で堂々と盗撮をしていたわけですから。簡単に図示すると

 

 前

乗客乗客 通 乗客乗客

乗客乗客 路 乗客乗客

女性男性 私 乗客乗客

乗客乗客   乗客乗客

後ろ

 

こんな感じで私のすぐ真横で、私から4~50cmぐらいしか離れていないところで堂々とやっていたのです。

本来ならその男性になにかしらのアプローチをかけるべきだったのですが、私は目線だけはその男性に向きながら、その場に凍りついてしまいました。

「え・・・は?え?え?は?嘘でしょ?まさか現実で本当にこんなことをやる人間がいるとは思ってもみなかった。」

盗撮を見た瞬間はこういう風に思いました。ネットやテレビを見れば盗撮関連の記事やニュース、さらに言えばそれっぽい動画なんていくらでも出てきます。しかし、それを生で、現実でそのような犯罪行為を見たことがある人は一体どれだけいることでしょう。かくいう私も完全にどこか別世界のことだと思っていました。私はやはり社会問題に疎く鈍いのだと痛感させられ、社会問題がいかにして社会問題足り得るかを理解しました。そこにあったのは生々しい現実でした。

 

そこで私は2つの選択肢を思いつきました。

①私が彼女に盗撮されていたという事を伝えず、その男性を捕縛し証拠を取り上げなければ、彼女は盗撮されていたなどとは夢にも思わずその日の生活を送ることができる

②自身の推量など無視して犯罪を見逃さずにきっちり対処する。男性に小声で話しかけスマホをおさえ、女性を起こして隣の男性はあなたを盗撮していましたと言い、警察へと連れていく

 

つまり、動くか動かないかでした。タイトルの通り、私は動けませんでした。

盗撮を見て、非常に強い嫌悪感を抱きました。であれば、もし盗撮されている事をあの女性が知った場合、彼女が受ける精神的苦痛というのは想像を絶するものだったでしょう。

私は盗撮犯が悠然と電車を降りていく姿を眺めることしかできなかったのです。何の行動も起こすことができなかった。悔しくて仕方がなかった。泣きたかった。

②を実行した場合、女性がこれから被るであろう精神的苦痛を考えると、完全に足がすくんでしまったのです。あくまで推量でしかないので実際に女性が盗撮を受けたこと知った場合にどういう気持ちになるのかは分かりませんが、少なくとも気分が最悪になることは間違いないでしょう。

「知らない方がいいこともある」私の脳裏にそんな言葉がよぎり、結果として①を選びました。つまり何もできずにただ盗撮犯が降りて行くまでずっと傍観するだけでした。

 

懺悔のつもりで書きました。行動を起こせばよかった、今は強くそう思います。次があれば必ず行動を起こします。もちろん、そんなことをする機会はないに越したことはないでしょうが。

 

 

 

知的好奇心があれば「けものフレンズ」は面白いと思える

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まとめ:知的好奇心があればけものフレンズを面白いと思える事は間違いない。

 

最近というか半年前からアニメ系の話題といえば「けものフレンズ」を欠かすことは出来ないだろう。
かくいう私もけものフレンズにどっぷりとはまり込んでいる。ガイドブックは現在5巻まで所持していて6巻は予約済み、それに漫画版も買った。

今となってはけもフレにはまっている私だが、4話放送時点までは一切けものフレンズに興味がなかった。なぜなら、ニコニコ動画で一話が配信されてから一週間後ぐらいにこれを視聴してみたのだが、開始後たった2分で切ってしまったからだ。まさに動画のコメント欄でよく見られる「入園試験」に合格することができなかったのだ。
具体的には

サーバルの声になんだかゾワッとした。
・セリフがあまりにも子どもっぽくて内容が薄そうだと思った

以上2つの理由で視聴を続けることができなかった。それから数週間ぐらいはけものフレンズが人気になることはないだろうなとか、なにが面白いのかさっぱりわからないななどと思っていたが、この作品をそもそも理解していなかったのだから面白いと思えないのも当然だったと思う。

 

4話の放送が終了し、それの考察記事がネットで盛んだった頃、ある記事をきっかけにこの作品への見方を180度転換することになった。

 

honeshabri.hatenablog.com

 

この記事で知的好奇心を刺激され、けものフレンズに対する興味が俄然出てきた人は多いだろう。当然私もその例に漏れず、「こんなに深い作品だったのか!?」などと驚き、自身のけものフレンズへの無理解を恥じたのは良い思い出である。

この記事を読んでからはけものフレンズへの偏見がなくなり、逆にこれは間違いなく面白いと思うようになった。

・人間とは何か

・人間はどこから来てどこへいくのか

・人間とその他の動物との違いはなにか

・人間は動物といかに付き合っていくべきなのか

・人間のあり方

など、根源的なテーマを扱っているように見えるのに、面白いと思わないわけがなかった。

それにたつき監督や吉崎観音さんや声優さんについても調べていく内に、ますます私の無理解を恥じ入る事になったし、この作品が緻密に練り上げられてきたことを知ることが出来た。

上の記事がなければ私はけものフレンズにハマることもなく、それへの偏見を持ち続けることになっていたと思う。それに物事に対して短絡的な偏見を持つことが如何に危険であるかを身をもって体験することが出来たのは良い経験になったと思う。

 

 

つまり、知的好奇心があったからこそけものフレンズを面白そうだと思えることができたし、実際にそのおかげでどっぷりとハマることが今もなお出来ているのだ。もしこのアニメを視聴しようか悩んでいる人がいたら、けものフレンズは知的好奇心を刺激してくれる作品だと言ってあげよう。知的好奇心を持っていれば安心してこの作品を見ることできるよと。

けものフレンズのこれからが気になって仕方がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

引っ越したいと思った時にまず気をつけること

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この記事のまとめ:もし移住したいのであれば、今抱えている問題をきちんと整理して、本当に移住しなければ解決しない問題だと確信できるかどうかをまず考えて欲しい。その時田舎であれ都会であれ問題がゼロの場所はありえないということを念頭に置いてほしい。


テストは何事もなく終了し、夏季休暇に入った。私は友達が殆どいないので家に篭って英語学習と読書に日々精を出す毎日を送っている。とはいえ、このような長期休暇に必ずセットとしてついてくるものと言えば、家族行事であろう。今年は大分県にある祖母の家へと帰省することになった。
大阪から大分へ、つまり都市から田舎への帰省というのはよくあるパターンだと思う。しかし、しばしの羽休みとしてだけで帰省するのではもったいないと思った。なぜなら、将来の日本において、少子高齢化が今よりも加速し、人口もかなりの程度減少することが予想されている上、時がたつにつれ、限界集落が増えたり地方の過疎化がより速く進んでいき、さらにそれにともなって様々な問題が出てくることが予想されている。
このようにこれらへの対策が国家にとって喫緊の課題であることは間違いない。であるからには一般市民がそれについて考えてみるというのは少なくとも害にはならないだろう。


・場所への理想について

 私にとって田舎に住もうが都会に住もうがあまり気にしない。重要なのは結局のところより良く生きることである。どちらに住んでも最終的にはこれに収斂するということを大分と大阪に住んで身をもって経験した。田舎に住みさえすれば気楽に生きれるのだろうか、都会に住みさえすれば人生は今よりも楽しくなるのだろうか。
もしこれらのような理想を抱いている方は今すぐその理想を疑ってみたほうが良いだろう。はたして本当に環境さえ変われば何もかも自分の思い通りに行くのだろうか。そもそもなぜ自分は場所を変えたいと思っているのだろうか。そう思っているということは自分にとって何か問題が存在するということであり、それを解決する手段として移住するということであろう。こう書くと確かにもっともらしく聞こえる。がここで注意してほしいのは、その問題について真剣に考えた結果なのかということである。つまり、安直で短絡的な結論としての移住であれば恐らくあなたはどこへ行っても幸せにはなれないだろう。

 

特になんとなく「都会は疲れたもう嫌だ。田舎でのんびりしたい。」なんて考えているのであれば少し考え直したほうが良いだろう。

私見だが、私は都会に住んでいて疲れるとはあまり思わない。大阪であれば人が多い分人間関係が希薄になりがちで特に息苦しいと感じることがない。むしろ自分とは合いそうにない人とさっさと離れて別の合いそうな人を探せるという意味では案外生きやすいと言える。それに対して大分では人が少ない分コミュニティの深度が自然に深くなる。深いコミュニケーションが苦手であったり、上手く付き合うことが苦手な人には生きにくいだろう。それにもし何か不祥事が起こればその情報は一瞬でコミュニティ全体まで広まり噂される。果たしてあなたはそれに耐えられるだろうか。とはいえこれは私の感想であり、物事の見方の一面でしかない。考えれば他にも様々な良い面悪い面が色々出てくると思う。


田舎や都市への理想を持っている方は一度考え直したほうが良い。ただ単に問題からの逃避を求めて移住するのであればやめるべきだ。田舎へ行こうが都市へ行こうが、問題が完璧にゼロの環境というのはないからだ。つまり、ある程度の問題の受容はどこへ行こうが必須であり、そこに都市も田舎も関係ない。どこへ行っても良いところと悪いところがある、これを受け入れなければならない。
理想の場所というのは現実世界のどこに存在しないのである。私たちは大なり小なり常に問題と向き合っていかなければならないのである。

 

だからもし移住したいのであれば、今抱えている問題をきちんと整理して、本当に移住しなければ解決しない問題だと確信できるかどうかをまず考えて欲しい。その時田舎であれ都会であれ問題がゼロの場所はありえないということを念頭に置いてほしい。

 

私の記事のアクセス数が少ない理由

 

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言いたいことの質が低い

 

起承転結がない

 

色で強調したりなどの見やすさへの配慮が下手

 

文章が長すぎたり短すぎたりでちょうどよい文字数調整が下手

 

要領を得にくくて、回りくどい文章に自分でしている。

 

他のサイトと同じようなことを書いてしまっている

 

つまり上記にあげたことと逆のことを実行すれば良いんですね。といってもそれがすぐにできれば誰も苦労はしないんですけどね。精進します。

 

 

けものフレンズにおけるサンドスターの意図についての考察

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この記事のまとめ:サンドスター、又はそれを操るものは人類に試練を課している

 

多くの人はこう思っているのではないだろうか。

「元が動物であるフレンズ同士だけでなく人間であるかばんちゃんみんな優しくて協力しあって生きている。なんて美しい世界だろうか」

と。

 

しかし、なぜそのような関係であるかを疑った人はいるのだろうか。サーバルジャガーもアルパカもツチノコもプレーリーもヘラジカもみんなみんな優しい。

優しすぎてその優しさを疑う事はもはや野暮であるという感が否めないがそれはさておき。

 

一旦立ち止まって欲しい。自然界に生きる動物がいきなり人間が持つような言語能力を持ったとして、彼女たちはどのように行動するだろうか。

いくら日本語の能力を手に入れたからと言ってそれを使う義務も責任もない。いつも通り他の動物を殺して食べても良いのだが、彼女たちはそれをしない。「フレンズ状態になって人間と同じような内蔵を持ったのだから動物みたいな行動をしないのは当然」という意見もあると思うが、まあここでは少し考察してみたい。フレンズは寧ろ基本的には積極的にお互いにコミュニケーションを取ろうとしたり、一部ではタイリクオオカミなどはマンガなど文化的なこともしている。さらには周りにいる動物を直接殺して食べるといった動物的行動が見られなくなり、じゃぱりまんを食べるか、かばんがつくる料理を食べるかという風に実に人間的になっている。

 

つまりサンドスターは自然界にいる動物が普段するような、特に他の動物を攻撃するという性向は抑制するのだが、その元の動物が持つ特徴はフレンズ状態では寧ろ強化している。そして言語能力を有する人間と同等の知能や社交性を持たせている。

 

このことから、サンドスターそのものか、又はそれを生み出す者が、理由はわからないが、人間にコミュニケーションを取らせたいと考えていることは少なくともありえないとは言えないだろう。

 

この理由については、たつき監督が現実にある様々な問題を鑑み、これを作品に反映してこのような物質を作ったとメタ的になんとなく察せなくもないが、それっぽく考えるなら、「あるべき未来」と「過去への償い」という2つの意図を感じた

後者は、人間が存在すると思っただけの可能性がある動物や絶滅した動物すらも問答無用にフレンズ化させるということに関係がありそうだからだ。なぜサンドスターは現実に存在する動物だけでなく、わざわざ絶滅動物や、存在するかどうかもわからない動物もフレンズ化するのか。

特に絶滅動物のフレンズにハイライトがないなど凝った設定があるのを意味深に感じてしまうのは当然だろう。特に人間の手によって絶滅された動物のフレンズを見ると、なんとなく罪悪感を覚えてしまうのは仕方がないだろう。

それに神話や伝承系のフレンズの存在も意味深に感じる。アニメでは四神のプレートが超重要アイテムとなっていたが、現実では四神が助けてくれるなんてことはないだろう。抽象すると、現実では伝説だろうが神話だろうがこれらは創作であり現実には存在しないが、作品内では実際に存在しているという差が重要だと思う。といっても、この差が何を表すかは正直よくわからないが、少し妄想するなら、人間が信じてきたもの、そして目指しているものは、本当に信ずべきものなのか、目指すべきものなのかを考えさせてくれるような気がする、気がするだけ。

前者はフレンズの存在という新たな可能性、つまり漫画版にて「フレンズは人間と動物との間の架け橋になれる存在」として扱われているからだ。フレンズの存在はつまり人間との対話を可能にする。であれば人間と動物とのより良い共存方法を議論することができる。これは歴史にとってあまりにも巨大な出来事であることは疑いようもない。フレンズの存在は私達のあるべき姿と動物との付き合い方の模索を促しているような気がするのである。

そしてこの2つの意図を統合するのなら、人類のこれまでの業を見かねて人類に希望を与えていると言えないだろうか。

 

 

話題は変わって、セルリアンはなぜフレンズを捕食し、元の動物に返すという全くもって意味不明な行動をとっているのだろうか。これを強引に解釈するなら、いわゆる人間に対して試練を課しているのではないだろうか。人類への希望としてサンドスターを出したと仮定するなら、人類がその希望に応えようと思っているのであれば、そうするということをきちんと証明しなければならない。そのための敵役としてのセルリアンではないだろうか。

 

 

セルリアンはフレンズにしか倒せない。フレンズたちの知能は皆が皆良いというわけではなく、かなり差異があるので上手く連携できなければあっという間にやられてしまう。そうなると同時にセルリアンに手も足も出ない人間も自動的に敗北となる。そして本気でセルリアンに勝とうと思うのなら、人間との連携が必須であることは間違いない。というのも、フレンズの数は基本的には動物一種につき1人、多勢に無勢であることは明白であるからだ。だから人間との密接な連携による効率的で安全な作戦行動が必須なのだ。

 

そしてこの作戦行動を通じて人類の内省や漫画版で言及されたフレンズがその本来の役割を果たすことが予想される。これこそサンドスターを操るものが望んでいる結果ではないだろうか。

 

そしてこれが決定的な差だと思うが、仮に人類が敗北しても、人類は消滅するが、フレンズは元の動物へと戻りいつも通りの生活へと戻る「だけ」なのである。そう、動物に対しては何のペナルティもないのとは対称に、人類は存続の危機に危ぶまれているのである。この決定的な差はもはや人類に何らかのアプローチをしていることを表していることは間違いないと思うし、まさに試練を与えていると言っても過言ではないように思われる。

そしてアニメ版はフレンズと人類との連携が失敗した世界だと捉えることができるだろう。

 

 

 

 

らき☆すたとけものフレンズから成長と幸福のあり方を学ぶ

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当記事は7000字以上あります。心して読んで下さい。

 

まとめ

  •  「成長」というのは特に進化の促進という意味において価値がある。そしてそれは私企業が存在する世界の性質のために半ば強制される。しかし私はそれには同意しない。私は漸次的成長で良いと考えている。
  • 幸福というのは進化の流れが安定している状態のことである。大いなる目標を達成するとか、世紀の大発見をするといったような大仰なものではない。身近にあるものであり、誰の手にも届くものである。本文には書いていないが、それは心の平静も安定状態と言える。

あーあー、「成長」っていうキーワードは本当にどこの企業でも見かけますね。

面白いですよね、これ。

成長できるのはほんの一握りの企業だけ。それ以外はそのうち文字通り消滅する。確かに自然淘汰のように見えて、企業を生き物のように見たくなるのは案外理にかなっているのかもしれませんね。

上手く適応できたもののみが生き残ることができる弱肉強食の世界とでも言えば良いのでしょうか。よく言われている表現ですよね。私はまだバイトしたこともインターンシップで働いたこともない労動未経験者ではあるのですが、いつかその荒波に揉まれて石ころから砂粒になって無限にある塵の内の一つにでもなるのかもしれないと考えると、なんだか悲しい気持ちになって来るのですが、それはさておき。

 

いきなり本題ですが、これもよく言われていることだと思いますが、それもおいといて。

なぜ「成長」する事を半ば強制されるのか。

 

「成長したくないならしなければ良い、当然自己責任だけど。」と言われてしまえばそれまでですがちょっと待って欲しい。今はそもそもなぜ成長することが半ば強制されるような社会制度になっているのかについて考えたい。

ここまで言っておいてあれだけど、私にはそれを語る能力なんてない。カール・マルクスも新書の解説本を読んだだけだし、構造主義とか、進化生物学も新書で知った程度にすぎない。つまりにわかなんですね私は。よくいる一般的な大学生と言うわけです。だから私がいくら語ってもそこら辺に落ちているあまり論理的でない記事と対して変わらない記事しかできません。

まあ、それを承知で自身のつまらない考えをここに書き溜めているのです。

 

閑話休題、自分なりに根本的なことを話したい。

世界はなぜ平和ではないのか、それは世界中で紛争が起こったり経済格差や差別などの諸問題が世界中で問題になっているから。

ではなぜそのような種々の問題が起こっているのか、それは一括りに言うのは良くないのかもしれないが、その根本的な理由は「進化」しあるのではないだろうか。

あ、ここで進歩と同じ意味で進化を捕らえないでくださいね。

生物不変のものではなく長大年月の間に次第変化して現生の複雑で多様な生物が生じた,という考えに基づく歴史的変化過程種類多様化と,環境への適応による形態機能行動などの変化みられる。この変化は,必ずしも進歩とは限らない

三省堂 大辞林より)

 言い換えればある動物が交配して自身の遺伝子が子に受け継がれていく一連の過程を進化というのであって、それは進歩とは言いませんよね。

本題に戻って、「人間」は自身の遺伝子を残していくためにまずは生き残らなければならない。その次には相手も見つけなければならないし、更にはできた子どもを保護し養っていかなければならない。まあ、難しいよね。

ここ200年で一気に世界人口が増えた背景には、それが起きるだけの社会制度の整備や技術革新が起こったことなどが挙げられる。そう、本当に最近になってやっと多くの地域で人間が右肩上がりに繁殖できる程度の社会が出来上がった。

 

そして今私は21世紀という、昔と比べたら格段に行きやすいであろう社会の中で生きることを許されている。

 

だからこそ先人の多大な労に感謝しつつ生きているわけだが、大学生になって時間に余裕が出来たからか、最近「幸福」について考えている。

幸福とはなんでしょうか。人間も蟻やペンギンのように一生物に過ぎず、その最たる違いと言えば知能ぐらいではないだろうか。人間がいくら知能に秀でていようが、進化するということが基本的な最大目標であることに変わりはない。

「基本的な」と言うのは、これが人間の面白いところだが、自身の求めるものを限りなく追求でき、進化とはおよそ関係のなさそうな事を最大目標にできるからである。といっても進化と似たようなものもあるが。例えば歴史に名を残すことそれ自体を目標にしたりとか。

 

閑話休題、結局のところ、基本的には「幸福」というのは進化の流れが安定している状態を指すとは言えないだろうか。なんだか夢もへったくれもないような定義に見えるが私にはそこまで外れていないように見える、私にとってはだが。(別にこれ以外の状態を幸福とは言わないと言いたいわけではないです。後から自分が言っていることがおかしいと気づきましたごめんなさい。)

所詮一生物なのに、結果的に知性を持つに至ったに過ぎないのに、なんでもともと高尚な何かを私たちは持っているのだと考えられるのだろうか。私はそれを常々疑問に思っている。

 

確かに、何か「高尚な理想の下我々は日々を生きているのだ」なんて言えたらどれだけ美しいでしょうか。

明確な目的、理想があるとそれだけ生きやすい、何を受け入れるべきか、何を受け入れるべきではないかがはっきりしている。そんな風に屹立として生きることができれば確かに生きやすいでしょうね。楽ですから。だから美しく見えるのかもしれません。

 

しかし、皆さん御存知の通り、人間はそんなに上手く生きることができない。悩みが完全に100%ない人っていませんよね?人は人である時点で何らかの考えを持たずに生きることができない。だからこそ齟齬が生じるのは仕方がない。そのために社会的関係において人々は悩み続ける。

 

私には社会的関係というのが人にしか適用されないというのがいまいちよくわからなくて、社会的関係って他の生物や環境もその範囲内に入れることができないのでしょうかね。人間は人間だけで成り立っているわけではないですし。自然と人間とを分ける必要ってあるんですかね。私はないと思いますが。

 

 

それはさておき、結局のところ人間がより良く生きるために社会制度があり、技術がある。つまり、これらの最終目標は進化の促進にほかならない。

でなければ福祉国家がトレンドになんてなりませんよね。個人の人権が保証されるなんてことはありませんよね。

 

日本を例にあげよう。

一夫一妻であれば自由に誰でも結婚することを許された社会(LGBT問題はここでは置いておく)、そこでは食べ物が日夜工場、または手作業で作られており、いつでもどこでも手に入る。というか大量の廃棄処分が発生するほど作ってる。それに安全な家があり、法整備もそれなりにととのっており不法侵入の恐れもあまりない。更には仕事も完全に0というわけではない。まあ、近年格差が一気に広まりつつあったり人口減少が著しくなってきてはいるが、だからといって直ちに日本にいる全ての人が干上がるわけではない、長期的に見て考えるべき問題だけども。政治状況もまあ、最近はテロ等準備罪とか憲法改正とかはっちゃけている自民党もい与党もとい安倍総理大臣ではあるが、日本人がちゃんと立ち上がってくれるものと信じている。

このように日本はまだまだ多くの問題を抱えているが、個人の観点から見れば日本は生きにくいとは言いにくい程度には生きやすい世の中になっている。

 

 つまり、進化し易い環境なのである。

しかし、現実はそう甘くはない。あくまで環境がそうなだけであってじゃあ問題なく日々を幸せに生きていけるかと言うとそんなことはない。人間と人間の関わり合いが結局のところ大きな問題であって、その環境はあくまで人々が乗っかる台でしかないからだ。当然台が平らであればあるほど、人との関わり合いが重要になってくる。と言っても大きな凸凹があって隣の人の顔が見えなくても、それでだれかとコミュニケーションを取れない何ていう時代ではない。インターネット恐るべし。

 

 

なんだか変な方向へとずれていっている気がするので本題に戻ろう。

なぜ「成長」する事を半ば強制されるのか。

 

それは進化の促進のためだからであろう。

なんださっきも言っていたじゃないかという非難が聞こえるが、今の私にはそれ以外に考えられない。視野が狭いとも言うが。

何のために働くか、それは生きるために。

労動とはなにか、それは生きる為の手段である。

果たしてそうだろうか。それだけであろうか、特に後者。

言ってしまえば現在において、労動は私企業「が」生きるための一道具に成り下がってはいないだろうか。そしてその労動を行う人間は消耗品となってはいないだろうか。人間が自身が作ったものに翻弄されるとはなんたる本末転倒、主客転倒であろうか。

 

「長期的な成長」、確かに聞こえは良い、しかしそれは結局のところ、「私達だけが」長期的に成長するというカッコつきにすぎない。だからこそ企業は常に同業他社を打ち負かさんと日々経営戦略を練り実践している。でないと自身が潰されるからだ。

自ら潰しにかからないといつ自分が潰されるかわからない。

ビジネスの世界はある意味で原始状態のような世界とも言える。私たちの多くはこのような世界のある生物の栄養源として摂取されて排泄される。それで私達の役割は終わり、土へ還る。

 

そんな排他的な残酷な世界で私は生きていくことができるのだろうか。心配でならない。私はできれば誰とも争いたくない。

 

そもそも「成長」というのは絶対的に称揚されるべきものといえるのだろうか。

私にはそれが分からない。そのもっともわかりやすい例が原子力発電所であろう。あれはまさに使い方を一つ間違えるだけで大量の死者が出る事故に繋がりかねない。これもある種人間の技術の「成長」の結果にほかならない。

 

だから、「成長」というのは意図して起こす必要はないものと思っている。結果的に、二次的に、付随的に起きるものだと思っている。

急過ぎる成長は必要ない。なぜなら、人間の幸福、つまり進化が寧ろ阻害される可能性があるからである。もう一度原子力発電所の例を挙げると、人々が大量に死に、環境も破壊される、こんなことは誰だって起こってほしくないだろう。我々がこれからも進化できるかどうかに対してマイナスの影響を与えているのだから。だからこそ、本来なら環境に悪影響を与えない再生可能な持続的エネルギーでもって発電すべきなのだが、現在全ての電力を賄えるほどの技術の「成長」には至っていない。つまり「成長」の方向を間違えてきたとも言える。

 

まとめれば、ある程度安定した進化の流れを確保できているのであれば、漸次的な成長はあるにせよ、それ以上の速度での成長は必要ないものと思う。それに現在進んでいる成長に長期的に見て問題がないか常に監視し続けなければならない。

これは「今となってはこれ以上猛スピードで成長し続けても人類だけでなく自然すらも破壊してメチャクチャなことになるからその速度落とそ、ね?」という単純な話です。単純だからこそこんな理想が複雑な人間によって達成される日が来るかは神のみぞ知るだが。

 

ここまでババっと書いてみて、自分は具体的に物事を書くことができないのだな実感するのですが、それはさておき。

 

 そろそろ「お前にとっての幸福って具体的にどういう状態をさすんじゃい!さっきから曖昧なこと言いやがって!!」という非難が聞こえてくる気がするのですが、まあどうしましょう。

 

基本的に安定した進化の流れというのは、家族や友人や親戚との関係が良好であり、子どもがいる場合子どもを養っていけるだけの金を稼げていて、特に何かに縛られること無くのほほんと暮らしている状態というのが私の解釈です。

 人によっては刺激が足りないとか、まさにこれこそが理想やとか、絶対無理やわこんな生活とか色々あるでしょうが、まあ私はこういうのが幸福なんじゃないかなあと思ったりしているわけです。

 

ここでやっと 記事タイトルに触れる事が出来ました。

前置きが長くてごめんなさい。

 

まず「らき☆すた」ですが、ニコニコ動画で7月14日まで全話無料で見れるんですよね。それで折角だし見てみようかなと思って見てみたんです。

この記事を見て察しているかもしれませんがどっぷりとハマってしまったのです。ああ、こんな緩い日常が毎日続けばどれだけ幸せなことだろうか思ったのです。

そこでは他を押しつぶす為の「成長」など必要ない。ただ誰かとの他愛のない、しかし親しみのこもった会話そのものが「幸福」の源になっている。

日常系アニメだから当たり前っちゃあ当たり前なのかもしれないのですが、このような当たり前にスパイスを加えたものが売れているということは、つまりそれだけその当たり前ができていない証拠でもありそれが渇望されているということです。美少女というインセンティブ付きではありますが。

幸福というのは少なくとも無限に何かを欲することではないはずですし、仮にそうだとしたら永遠に幸せにはなれないでしょう。私からすれば、欲することそのものが幸福というのは哀れと言わざるを得ません。永遠に幸福にはなれないのですから。むしろ永遠に苦しみ続けるし、永遠に戦い続けることになるでしょう。

だから私はできるだけ物を欲さず、必要なものを必要なだけ、できるだけ少なくという風にして消費活動を行っています。それに既に今あるものを大切にしたり、積極的に友人を作るというのはあまりしませんが、人間関係もできるだけ円満であるように努力もしています。幸せと言うのは案外近くにあるんです。桃源郷ではないと思います。

 

これはらき☆すたである必要性は無いかもしれませんね。雰囲気だけで言えば同じような作品はありますから。決してらき☆すたを貶したいわけではなくむしろ好きです。

にらき☆すただけでなく、日常系のフィクションというのは案外得られる教訓があるのでそういう視点から見るのも良いですよ。

 

 

次に「けものフレンズ」ですね。

いきなり自分なりの見方に入らさせていただきます。ここでは考察と言うよりか少し観念的な見方をします。

彼女達は人間がいなくなったと思われるジャパリパーク内において生活している。そこでは人間ではなくラッキービースト(行こうラビと略す)が彼女たちの世話をしている。ラビによる最大の恩恵はじゃぱりまんの供給と言える。彼女たちにとってはそれは常に死活問題だからだ。特にじゃぱりまん以外に食べられるものがない動物にとっては特に。

だから彼女達はラッキービーストに依存しているとも言えるが、自分なりに言い換えてみると、それだけ楽に生きれるだけの社会制度を持っているとも言える。

そこに「成長」はない。しかし「幸福」はある。

彼女たちにとって「成長」という言葉恐らく頭のどこを探しても見つからないだろう。なぜなら必要ないから。十人十色、みんなそれぞれ苦手な所、得意な所があり、役割分担すれば良いだけなのだから。それに彼女たちは皆実に素直であったり、包容力があったりする。皆が皆を認め合い、包容しあい、助け合う。それはセルリアンが襲ってきても変わらない。

自然の掟ということをカバは言っていたが、それではアニマルガールの特色が一つ消え失せるとも言える。なぜならレンズでなければ絶対に有り得ない能力、人間の言語を手に入れたにも関わらずそれを有効利用するなと言うのだから(彼女は建前として言っただけだと思うが)。

 

言語力があれば当然動物間でコミュニケーションが起こることは予想される。そこには当然人間と同じように齟齬があってもおかしくはない。しかしアニメを見るにそれはあまり起こっていないようだ。果たしてそれはなぜだろうか。動物がいきなり言語力を手に入れたとしても、普通は他の動物に対しても以前と変わらず排他的攻撃的であってもおかしくはない。しかしそんなことは起こっていない。なぜだろう。

 

ここで私は2つの考えを思いついたがここではより関係が深い方を紹介する。

なぜ彼女たちはみな優しいのだろうか。それは絶対的食料に悩まされることがないという安心がその根底にあるからではないだろうか。ジョージ秋山の「アシュラ」では食べ物を得ることのできない人間がいかに悍ましい獣になってしまうかを克明に描いている。その変貌ぶりを獣フレンズに当てはめてみると、これは実に適合しているように見える。

彼女たちは絶対に食料に困ることはない。そういう絶対的安心を提供してくれる基盤があるからこそ彼女たちはあのように日々自分のやりたい事をできている。

 

現実に戻ってこよう。

まず何よりも食料調達と供給を重視する社会制度にする必要があるのではないだろうか。といっても、この記事タイトルの本旨とはずれているのでこれ以上は述べることができないし、これ以上述べることができる能力もない。

 

まとめ

  •  「成長」というのは特に進化の促進という意味において価値がある。そしてそれは私企業が存在する世界の性質のために半ば強制される。しかし私はそれには同意しない。私は漸次的成長で良いと考えている。
  • 幸福というのは進化の流れが安定している状態のことである。大いなる目標を達成するとか、世紀の大発見をするといったような大仰なものではない。身近にあるものであり、誰の手にも届くものである。本文には書いていないが、それは心の平静も安定状態と言える。

シャドーイングをしようか悩んでいる人のためのシャドーイング100日実践の効果のまとめ

先日、つまり7月4日にやっとシャドーイングの実践日数が100日を超えました。

余談ですが、2017年の1月から始めて何回か中断したりしたので実質100日を超えるまでに二倍以上の日数がかかっています。怠惰ですね、私。

 

早速効果を述べていきたいところなのですが、そもそも私の英語力がどの程度のものなのかを知っていないと、どんな人にどれだけの効果があったのか、そしてシャドーイングを始めようか迷っている人の「本当に始めても大丈夫なのか」という疑問を解くために、まずは最近の自身の英語学習歴から述べようと思います。唐突に見も知らぬ人に「コレくらいの効果あるよ!」と言われるより、英語学習が上手く行かずもがいている普通の人間が「シャドーイングを100日間続けて、これこれこういうことがわかったよ」と言う方がなんとなくしっくりきませんか?まあ、英語のプロが「効果バツグンだよ!」って言ったほうが説得力があるのかもしれませんが・・・とにかくシャドーイングがどういった効果をもたらすのかを理解する一助にはなると思うのでよろしくお願いします。

 

まず、大学受験時、つまり高3の時は偏差値50よりちょっと上の大学レベルのリーディングレベルしかなく、それ以外は壊滅でした。にも関わらず英語に興味があり、「仕事で海外駐在とかしてみたいなー」とか思っていました。

なので大学に入ってから、つまり2016年の4月頃から発音の学習と同時に英語上達完全マップに沿って勉強し始めました。 

何を血迷ったか、6月にTOEICを受けました。点数は330点でした。まだ二ヶ月しか経っていなかったので当然ですね。その時はまあそのうち効果出るでしょと楽観的に考えて黙々と学習を続けました。

 

10月、英語をイメージとして理解しながら読む多読を始めました。これを始めていなかったら今もまだ英語上達完全マップを続けていたと思います。それくらい英語学習の印象が変わった学習法でもあります。

つまり、こちらのリーディング方法の方が圧倒的に早く読めるし、何より「本」で学ぶので知的好奇心が満たされて楽しかった。もちろん、英語上達完全マップにそってまだ学習を続けていたのでそれと並行して多読をすることにしました。

 

そしてその2ヶ月後の12月、私はふと疑問に思いました。

「英語学習マップって本当に効果あるの?」

結論だけを言えば英語上達完全マップは私には合わなかった?ようです。リスニングもスピーキングも上達せず、上達したのは「英文解釈教室」を利用したリーディングだけでした。特に「ドンドン話すための瞬間英作文」は補足やニュアンスの書き込みをしてぼろぼろになるまで繰り返したんですけどね。今でもこれで学習した内容が役に立っているかは疑問に思っています、意識できないだけで役に立っているのかもしれませんが。

音読パッケージ?あれは黒歴史ですね。私の使用法がおかしかっただけなのかもしれませんが、本当に何の効果も感じられませんでした。

 

つまり、大学入学後英語学習開始から8ヶ月たって12月であるにも関わらず上達したのはリーディングと発音だけでした。

具体的に言えば、

リーディング :翻訳方式のリーディングは以前よりも1段階高くできるようになった(感覚的だけど)。多読方式のリーディングはペンギンリーダーズのレベル2が問題なく読める程度でした。

リスニング :12月あたりの英語の授業でCDのネイティブ音声を聞いたときは、英語を喋っているのが分かる程度でした。もちろん意味を読み取る事はできませんでした。単語がたまに聞き取れる程度ですね。

 

発音 :使用したのは「英語耳」「英語喉」「ジュミック今井のフォニックス」です。これらは英語学習開始から最初の3,4ヶ月ぐらいに済ませました。発音「だけ」はその授業の教師(日本人でどれくらい実力があるかは私には分かりませんでしたが)に「できてるね」という曖昧ではありますが褒め言葉を頂いて嬉しかった。といっても一通り発音の知識を体得してカタカナ英語からほんの少しだけ脱却できただけでまだまだ修正の余地ありですが。

 

 

 

まあ、この惨憺な結果を見れば察しがつくとは思いますが、この時点で学習法にテコ入れをしないと永遠に英語力は伸びないと理解しました。

 

まず英語上達完全マップは解雇しました。私には効果がなかったのですから当然です。多読は当然継続です。それから新規にヒトリ英会話とシャドーイングを取り入れました。1人英会話の説明はここでは割愛します。

 

はい、ながらくお待たせしました。やっとここでシャドーイングの登場です。

リスニングが全くできないということは、TOEIC的にも実用的にも致命的です。ですからこれをなんとかしようと考えあぐねていた所、このシャドーイングにたどり着きました。ここで当時参考にした文献の紹介です。

 

 

英語上達12のポイント

英語上達12のポイント

 

 

 

 門田修平さんの「英語上達12のポイント」という本にシャドーイングがいかに効果があるかという研究の項があります。

その該当箇所である「ポイント4」と「ポイント5」という項から少しだけかいつまんでまとめさせていただきますと、つまり発音が良くなってより正確に聞き取れるようになるのと、面白いことにリーディング速度の上昇の効果もあるんです。もっと詳しい説明が欲しい方は本書を読むことを強くおすすめします。理論的なことが書かれていて面白いですし、自身の英語学習法の点検にも役立ちますよ。 

 

こうして私は12月を新しい英語学習法の作成に費やし、1月から再スタートしました。

シャドーイング教材は↓です。大体一日一時間くらいしました。表紙は少し扇動的ですが中身はちゃんとしっかりしています。

 

 

絶対『英語の口』になる! 中学英語で基礎から鍛えるシャドーイング大特訓50<CD2枚付>

絶対『英語の口』になる! 中学英語で基礎から鍛えるシャドーイング大特訓50<CD2枚付>

 

 

 

そして7月4日、紆余曲折を経てやっとのことで100日を達成しました。

 

本当にお待たせさせてしまい申し訳ありません。ここからシャドーイングの効果のまとめに入っていこうと思います。

 

まず私のシャドーイング開始時点での英語力を一言にまとめてみます。

 

「英文解釈教室」がギリギリできるぐらいの翻訳方式のリーディング力と、ペンギンリーダーズのレベル2が読める程度の多読方式のリーディングと、発音がカタカナ英語ではない程度にできる以外にはリスニングもスピーキングも全て論外な英語初級者ですね。

 

ではそこからシャドーイングを100日間するとどうなるのか。

 

一言で言うと、100日あたりでようやくシャドーイングの効果がほんの少しずつ現れ始めたといったところでしょうか。

 

そう、ほんの少しです。どんな英語でも聞き取れるようになれて発音も完璧になるなんていう魔法のような学習法ではありませんでした。巷でもよく効果が出るのが遅いと言われているように、本当に遅いみたいです。ここまで引っ張っておいて申し訳ありませんが、これが現実です。

しかし、ほんの少しとは言え、私にとっては劇的な変化です。なんせたった100日でほんの少し「」効果が出たのですから。私にとっては革命です。殆ど無駄になった8ヶ月間の苦しみの念が一気に抜けていくような気がします・・・。

具体的には、

・中学英語レベルでごくごく短い文章(5語以下ぐらい?)で語彙も簡単であれば、初めて聞く文章であっても全集中力を使えば英語の文章として聞き取れて意味もわかるようになった。

・本当に文章を読むスピードが少しだけだが上がったような気がする。文章を塊として読めてきたのでしょうか。多読をしている時でもなんとなく塊で読めている気がするようなしないような・・・。

シャドーイング内で扱う中学英語レベルの文章が徐々に楽に聞き取れて意味がわかるようになるのが速くなった。具体的には3時間かけてやっと聞き取れて意味が取れるようになって発音もある程度ましになったのが、2時間40分ぐらいになったりですかね。

 

こうして見ると本当に微妙ですね。私にとっては大きな変化ですが。

しかし、これらの成果以上に、英語力に直接関係はありませんが、得た教訓があります。英語力の少しの向上という嬉しい出来事以上に重要な成果だと思います。

それは、発音と英文法の基礎ができていれば

シャドーイングは続ければちゃんと効果がある

 

ということがこの100日間で分かりました。

やはりいちばん気になるのはここですよね。効果のない学習なんて誰もしたくないですよね。

安心してください。シャドーイングはちゃんと効果があります。科学的な裏付けもあります。門田修平さんの著書を読んで下さい(他人事みたいで申し訳ありませんが)。

それに制限時間がある中で目標に向かって努力をしたのはいいが、それが無駄だったと後になって判明するのは悲しいですからね。間違った学習法とか自分に合わない学習法というのには十二分に気を付けないといけません。

あと、英語なら、情報はちゃんと探せばいくらでも出てきます。甘い誘惑に流されてはいけません。

当時の私は特に比較検討することもなく「英語上達完全マップ」を選んでしまいました。

「完全」と謳っていますからね。確かに合う人にとっては「完全」なのかもしれませんが、別にこの学習法を貶すつもりは皆無なのですが、私には全く合いませんでした(使用法が下手だっただけかもしれませんが)。

 

もう一度いいます。

発音と英文法の基礎ができていれば

シャドーイングは続ければちゃんと効果がある

 ということがこの100日間で分かりました。

大丈夫です。安心してください。

そして私はこれからもシャドーイングを続けていきます。

質問があればコメント欄にてお答えします。

 

MMDモデルの規約に覚える違和感について

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私の過去の経験かつバイアスだらけな記事ですので、「ふーん」と受け流してくだされば幸いです。下記の記事は「今」ではなく「過去」に考えていたことです。そういえばこんな風に考えていたなあっていうのを思い出して書いてみました。ですので支離滅裂気味です。自分の考えを整理するために書き出した以外に他意はないです。

 

 

私もMMDで幾つか動画を作り投稿したことがありますが、MMDモデルの規約にたまに違和感を感じるんですよね。
ずっと思っているのですが、「臭いものには蓋?」のような感じがしてならないのです。「とりあえず常識の範囲内で守ってね」という、「うーん・・・?」といわざるを得ないような感じです。
つまり、誰もこの深遠な問題について議論しようとするどころか口に出すことすらしない、意図して避けようとしているような気がします。

 

確かに公序良俗というのは非常に難しい問題です。「刑法175条における猥褻表現の定義が曖昧であり、刑罰によって不合理的に表現の自由を制限してしまう恐れがある」*1という意味でも、公序良俗が如何に難しい問題であるかを裏付けています。

 

この問題から避け続けた結果、「今のMMD動画ちょっと違和感ない?」という人が出てくるのは必然です。だから規約や公序良俗関係の問題について触れている記事がニコ動内のブログでたまに投稿されているのです。そしてそれらのコメント欄において疑問符をつけざるをえないコメントを多く見かけます。そのコメント群を一括してくくってしまえば、ほぼ問題意識を感じられません。問題を問題と感じることすらしていません。


モデラーの方々には当然考えてほしいのですが、本気で考えようものなら公序良俗の問題を一生ものの職業にできるレベルで難しいのでこの問題に時間をかけられるわけないのは当たり前ですが。


といっても1番問題なのは視聴者なわけで。視聴者つまり需要者の多くは青年、つまり傾向的に性欲が強い人が多いわけです。そうなると当然MMDに於いても性的なものを扱う動画の需要が高いわけです。

下ネタやエロを混ぜたほうが当然彼らの多くは喜ぶ。多くの動画のコメントと動画ランキングの傾向を見ればよくわかる(偏見ですが)。

ニコ動内では公序良俗について考えないでいられる特権が与えられているのです。

これが常態化していれば、当然公序良俗について考える機会は生まれるはずないでしょう。構造的に公序良俗について考える余地を自ら捨てているのですから。というか既に常態化しているので、これからもモラルは危機に晒され続けるでしょう。

性欲を否定するわけでは断じてないのですが、ニコニコ動画内でのMMD系動画がどうあるべきかを判断する為のモラルについて考えて欲しいのです。

 

モラルがない場というのは悲惨極まりないですからね。黒人差別などは今となっては表での鳴りは潜めていますが、昔は酷いものでした。黒人が表部隊であまり差別されなくなっていったのは、多くの人々がそのままの意味で死に物狂いで戦った結果なのです。人を傷つけるような差別はしてはいけないことだというモラルを獲得した結果なのです(この問題について一面的な見方ではありますが)。

 

 ではどうすれば良いのか。どうすればモラル、つまり公序良俗について考える機会を生み出しすことができるのか。

一つ目はまあ、できなさそうですが、MMDを完全に有料にし、利用規約の厳格化に務める。彼らの多くは趣味でやっているはずです。そうなるとやはり時間をモデル以外のところには使いたがらない。だから規約で手を抜いてしまう。そこをどうにかしなければならないのですが、MMDを有料にすることであえてMMD動画製作者人口を減らして、本気でMMDをしたい人だけの少数精鋭の団体をつくってそこで議論をしてルールを決めるとうのが一つ目。これはまあ現実味がゼロですね。誰もが自由にというのがMMDの良いところなので。ですので一つ目の案は私も好きではないです。

 

2つ目、時の政治家に教育政策を改善させる。これが1番根本的な解決策ですね。モラルを高めるような教育政策に変え、ニコ動内でモラルについての議論を発生させる。たったこれだけなのですが、それが未だ上手くいっていないのが日本の問題なのです。これは少しだけ現実味がありますが、超長期的な話ですし、モラルそのもの中身が曖昧なので実現する前にニコニコ動画そのものがなくなるような気がします。

 

3つ目、ニコニコに規制させる。これはR18カテゴリある時点で希望がそもそもないです。

 

4つ目、モデラーたちが集まって公序良俗に関する共通規約を作る。

いわゆる憲法や法律みたいなものです。いくら感謝で溢れるとはいえ、個々のモデラーによって規約が少し異なると、ある使い方が大丈夫かどうかを個々に確認しなければならないのははっきり言って時間がかかって疲れる。共通の規約を作ったほうが間違いなく楽だし、新規モデラーもいちいち規約を考えなくてすむ。

ただし、包括的抽象的具体的にMMD全体の問題を見ないといけないし、関わる人の全てがコミュニケーションを緊密にとり議論を精緻に進めていく高度な論理能力が必要なので、一応の完成にもかなりの時間を要するでしょう。

 

 

ここまで4つ挙げてみましたが、結局のところ、誰かが問題提起をしなければ何も始まりません。ですのでMMD動画製作者の方々がこの公序良俗、モラルの問題について、自身の意見を発信している記事を見ると、なんだか嬉しくなります。

 

*1  渋谷秀樹,2014,憲法への招待 新版,p109-116を改変かつ簡単に要約した。気になる方は読んでみてほしい。憲法の勉強にもなりますよ。

 

若者はなぜ政治に目を向けないのか

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大学生の私が日々の大学生活の中でなぜ大学生等の若者達は政治に目を向けないのかを自分なりにぼんやりと考えてみましたのでここで述べようと思います。

 

・政治関係の話をすると白けるのでそもそも会話に出せず、政治についての意見交換が行われないことによって政治参画意識が形成されないから

 

友達との会話内でそもそも政治関係の話題になったことが一度もないです。やはり大学の授業の話題かアニメの話題が殆どですね。会話の途中で、仮にある話題が一段落してさあ次の話題に行こうっていう時でも凄く言いづらい雰囲気が殆どです。邪推かもしれないですが、意図して政治の話題を避けようとしているんですね。これはそもそも政治関係についてのニュースを知らなかったり、興味がなかったり等の原因があるのでしょうね。それに話が続かないような話題は会話が成り立たないので避けようとするのは当然ではあるのですが。これを解決するのはまあ難しいでしょうね、私一人程度の力では不可能でしょう。私は政治についての知識が乏しく興味を沸かせるような話なんでできないので、スムーズに政治の話題に移れたとしてもまともに話せるかどうか分かりませんからね。

 

 

・短期的快楽に負けてしまうから

 

 それはやはりよく言われているように、自分とはあまり関係のないものと見ているというのは大きいと思います。そりゃ選挙に行ったからと言ってすぐに何かが変わるわけでもないし、長期的に見ても果たして本当に変わるのかどうか分からない。そんな不確定な未来の為に時間を割くぐらいだったらだったら別にいかんでもええやん、そんなことよりアニメ見よ、ゲームしよ、カラオケ行こーぜって短期的快楽に走るなんてわかりきったことですよね。それにこれもよく言われていることですが、人間がそもそも短期的快楽に飲まれやすいというのは多くの人が共通して持っている性質だと思うのでそういう根本的な人間の性質というのもやはリ大きいでしょうね。

 「若い」のでまだまだ成長の過程にあり、不安定な時期にいるというのも大きいでしょう。大学生に限って言えば、サークルなど大学生でないと出来ないことが多くあるので、それに引っ張られるというのもやはり政治に目を向ける時間を奪い取ってしまう大きな要因の一つだと思います。大学生活の中で多くの人が睡眠や学習を犠牲にしてより多くの時間を遊びに使おうとするように、長期的利益を犠牲にしてそうするというのはいたるところで見られることです。かくいう私も午前2時ぐらいの深夜にこの記事を書いています。睡眠不足やサーカディアンリズムの崩壊というのは日常生活に悪影響しか与えないのにも関わらずこの記事を書いているのです。

 

 

・選挙に行かない、もとい政治に目を向けない事によって起こる損について受動的だから

 

 この項のインスピレーションはこの記事から頂きました。

www.shijo-street-weekend.com

その中でも特に

で、その選挙行かない若者損理論を先生が語られていたので、僕はこう反論してみました。

別に、損してもいいって思ってるんじゃないんですか、って。

選挙に行かない若者に「行かないと損だよ」って論法は意味あるのか - 四条通り週末.comより抜粋

この文章が凄く私の腑に落ちました。ああ、確かにそうかもしれないって。受動的というのはまさに日本人の多くが持っている姿勢でしょう。お上は絶対とか、上司の命令がおかしくても逆らってはいけないとか、先輩の言うことはちゃんと聞かないといけないとか。なんというか「窮屈」とも言えるし「楽」とも言えます。何かに、誰かに唯々諾々と従っているだけでよいのならこれほど「楽」なことは無いかもしれません。これを「楽な生活」と呼ぶ人がいてもおかしくはないはずです。だからこそ多少の損がある政治関係の事象が起こっても上が決めたことだからと特に逆らうことも無く従ってしまう。そして「まあそこまで悪いようにはならないでしょ。」と何処かで楽観している。

 「行かないと損だよ」と言うだけでは若者の殆どは靡かない。なぜなら日常生活に差し障りがない程度の損なら既に受け入れる意識が根本にあるからだ。そのような人たちにはその過剰な楽観を取り除けるだけの政治参画の意義を説き続けなければならない。といってもこの意識を変えるというのは非常に難しい。そもそも「意識を変える」ということはすなわち人格を変えるということであり、その人の生活そのものが変わることを意味するからだ。人は今いる場所が気持ち良いと、変わりたくないと思う。自分の考えを全否定されて気持ちの良い人間なんてそういないだろう。誰かの意識を批判し啓蒙するというのはその人そのもの変えることであり非常に骨が折れる。そんなことを一人ひとりやっていたら永遠に現状は変わらない。

 ではどうすればよいのだろうか。言ってしまえば誰もが政治に参画せざるを得ない社会を作るしか無いと思う。具体的にどうすればいいのかとかは全くわからないのだが、これ以外に良い案が思い浮かばない。

 

無気力の対処法について~読書が効く?~

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今もそうなのですが、時々無気力になります。なにもしたくない気持ちが湧いてくるのです。そしてもう疲れたからいいやと自分に言い聞かせ、やるべき日課を放棄してなにか別のことをやり始めるということがよくあります。

 

正確には「何もしてない」のではなく「別のことをする」なのですが、日課をやっていないという意味で何もやっていないということにしています。だってこのような状況においての「別のこと」といえばニコ動で面白い動画を漁ったり、スマホゲーですからね。私にとってはこれらは何もやっていないのと同然です。

 

自分でも何やってんだってよく思ってます。しかしどうしてか中々克服できない。自分なりに分析して改善方法を試してはいるのですがやはり、過去の体験というか記憶というか、体に染み込んだ行動の記憶といえば良いのでしょうか。それこそ中毒症状みたいな感覚といえば良いのでしょうか、

 

「やめちゃいなよーやめちゃいなよー遊んじゃいなよーうぇーいうぇーいうひーうひー」

 

という悪魔の囁きがきこえてくるのです。

といってもそもそもこのような誘惑が生じるのは、日課である英語学習を楽しみながらできていないからなのですがね。やはり英語そのものに関心があっても、それに習熟するための訓練ととなるとどうしても退屈な面というのはでてきてしまいますからね。そこの退屈な面と接している時に悪魔の囁きが聞こえてくるのです。そこを如何に面白くするのかというのが喫緊の課題です。そうすれば英語学習は面白くなり、こうした無気力状態も少なくなるはずですからね。

 

無気力状態を休養期間として英気を養うというのも一つの解決方法だとは思いますが、やはりどうしても踏ん切りが付かないんですよね。「一日中何もしなくて良いのか」っていう非難が聞こえてくるような気がするのです。大学生とはいえ時間には限りがある、だからこそ時間を無駄にするのは気が引ける、というありがちな理由で踏ん切りが付かないのです。

とりあえず本を読んで心を落ち着かせるというのも一つの手ですが、無気力状態の時はやはり何も考えずに得られる快楽、つまりニコ動やゲームに流れてしまいがちでなんですよね。ですからそもそも本を読めるだけの気力があれば日課を続けていくことができているはずです。ですのでこの手はNG。

と、今この文章を書いていて思い出したことがあります。つまり「何も考えずに得られる快楽」を予め設定しておいて、それをできるだけ無気力状態から離れることができるようなものにしておくという方法です。私の場合、ラノベや軽めの小説とか写真を取りに行くということでしょうか。前者はサラサラと読めてあまり頭を使うことがなく、それでいて「本」であることに変わりはないので活字を通じて無気力状態を脱すると言った感じでしょうか。一つ上の「本を読んで心を落ち着かせる」の「本」はここでの「本」とは違って新書やノンフィクションや専門書などの普段私が読んでいる本気で考えて読まないとそもそも理解できないような「本」のことです。後者は構図や被写体を考える必要はありますが、例えば淀川に行ってその雰囲気を感じるだけでも大変リラックス効果があるので、これもやはり無気力状態から脱するのには有効な手段ではないかと思います。

 

とはいえ、上記の対処法を試して上手く無気力状態を脱しても数日後とか数週間後にはまた無気力状態に陥ってしまうという無限ループが最近の傾向でしょうか。こうして文章化することもどこがいけなくてどこをどう治せばいいのかという事が分かるので必須で、無気力脱出には役立つとは思います。が、それで対処すべき場所がわかり、対処法を取り敢えず考え、それを試し、ある程度は上手くいっても、やはり無限ループからは抜け出ることができないでいるのが今です。

 

ですので、最近はこのループを受け入れるしかないんじゃないかとか、このループを如何に上手くコントロールできるのかとか、そもそもコントロールできるのかといったことを考えたりしています。

 

つまり、まだまだ手探り状態です。そこでまあ自分でずっと考え続けるというのもありですが、ここで先達の知恵を借りるというのもやはり取るべき方法の一つでしょうか。

先達の知恵と言えばやはり本が無難でしょうか。ではどのような本を読めば良いのでしょうか。

「それはやはり自己啓発本です!!!」

といきなり断定するのは待ちましょう。ここで焦っては今後の解決策考案時に躓いてしまう元になります。よく考えて自己啓発本の中で知恵を探すかどうかを決めましょう。

よく自己啓発本は読むなとか一冊で良いといったような言論をよく見ますが、正しく情報処理ができてちゃんと実行できるなら別に何冊でも読めば良いと思います。本当にできる自信があれば、ですけど。残念ながら私はだめでした。高校時代、「ヒトを動かす」「7つの習慣&それの漫画版全冊」「嫌われる勇気」「ニューアース(この本は自己啓発ではないような)」などなど有名どころを何冊か読んだのは良いですが、「嫌われる勇気」の「アドラー心理学」以外は見事に読んだだけで終わりました。まあ、アドラー心理学が自分にハマったのは多くの自己啓発本を読んだおかげではありますがね。これだけハマった上に4周もしたので今も頭の中に残っています。つまりここから言えることは、自分にあった本を見つけるという目的であれば自己啓発本をあさってもかまわないということでしょうか。私の場合運良く数冊で自分に合ったものを見つける事が出来ました。しかし、やはり自分に合ったものを見つけるというのは時間がかかると思うのでどこかで妥協しなければならないのでしょうね。

 

まあ、現在は自己啓発本というより寧ろ、現実に戻る、つまり無気力でいたくないと思える本を読んだりしています。これは私が思うにここまでに述べた中で1番効くような気がします。つまるところ「ショック療法」と言えば良いのでしょうか。このような本は人によって違ってくると思います。私の例をいくつかあげますと、「銃口」「面白くて眠れなくなる進化論」「スリープレボリューション」「子どもは40000回質問する」「欲望について」「愛するということ」「茶色の朝」「夜と霧」「良き人生について」「歴史とは何か」

あたりでしょうか。ここに挙げたどの本の内容そのものも非常に面白かったのですが、それに加えて現実に戻りたいと思えるような気持ちになったんですよね。はたしてなんでそう思えるのだろうかと考えていた所、共通点のようなものが見えたような気がしました。つまり、過去を顧みて未来をより良くするというような解釈ができる本ならなんでも良いのです。

 

このような本を読むと自分もなんだか「やらねば」というような気分になるんですよね。ミラーニューロンのおかげでもあるのでしょうかね。あ、一般読者向けに優しく書かれた脳科学系の本も無気力の対処法の一助となるのでおすすめですよ。例えば「快感回路」「進化しすぎた脳」などですかね。

 

ああ、この記事を書く時間を日課に費やせば良かったかな・・・今日はまだ日課の一つも終わってないんですよね・・・。まあ、これも無気力対処の一貫ということでひとつ・・・。