かしこいに

大阪府在住の大学生。写真と雑食読書と。

らき☆すたとけものフレンズから成長と幸福のあり方を学ぶ

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当記事は7000字以上あります。心して読んで下さい。

 

まとめ

  •  「成長」というのは特に進化の促進という意味において価値がある。そしてそれは私企業が存在する世界の性質のために半ば強制される。しかし私はそれには同意しない。私は漸次的成長で良いと考えている。
  • 幸福というのは進化の流れが安定している状態のことである。大いなる目標を達成するとか、世紀の大発見をするといったような大仰なものではない。身近にあるものであり、誰の手にも届くものである。本文には書いていないが、それは心の平静も安定状態と言える。

あーあー、「成長」っていうキーワードは本当にどこの企業でも見かけますね。

面白いですよね、これ。

成長できるのはほんの一握りの企業だけ。それ以外はそのうち文字通り消滅する。確かに自然淘汰のように見えて、企業を生き物のように見たくなるのは案外理にかなっているのかもしれませんね。

上手く適応できたもののみが生き残ることができる弱肉強食の世界とでも言えば良いのでしょうか。よく言われている表現ですよね。私はまだバイトしたこともインターンシップで働いたこともない労動未経験者ではあるのですが、いつかその荒波に揉まれて石ころから砂粒になって無限にある塵の内の一つにでもなるのかもしれないと考えると、なんだか悲しい気持ちになって来るのですが、それはさておき。

 

いきなり本題ですが、これもよく言われていることだと思いますが、それもおいといて。

なぜ「成長」する事を半ば強制されるのか。

 

「成長したくないならしなければ良い、当然自己責任だけど。」と言われてしまえばそれまでですがちょっと待って欲しい。今はそもそもなぜ成長することが半ば強制されるような社会制度になっているのかについて考えたい。

ここまで言っておいてあれだけど、私にはそれを語る能力なんてない。カール・マルクスも新書の解説本を読んだだけだし、構造主義とか、進化生物学も新書で知った程度にすぎない。つまりにわかなんですね私は。よくいる一般的な大学生と言うわけです。だから私がいくら語ってもそこら辺に落ちているあまり論理的でない記事と対して変わらない記事しかできません。

まあ、それを承知で自身のつまらない考えをここに書き溜めているのです。

 

閑話休題、自分なりに根本的なことを話したい。

世界はなぜ平和ではないのか、それは世界中で紛争が起こったり経済格差や差別などの諸問題が世界中で問題になっているから。

ではなぜそのような種々の問題が起こっているのか、それは一括りに言うのは良くないのかもしれないが、その根本的な理由は「進化」しあるのではないだろうか。

あ、ここで進歩と同じ意味で進化を捕らえないでくださいね。

生物不変のものではなく長大年月の間に次第変化して現生の複雑で多様な生物が生じた,という考えに基づく歴史的変化過程種類多様化と,環境への適応による形態機能行動などの変化みられる。この変化は,必ずしも進歩とは限らない

三省堂 大辞林より)

 言い換えればある動物が交配して自身の遺伝子が子に受け継がれていく一連の過程を進化というのであって、それは進歩とは言いませんよね。

本題に戻って、「人間」は自身の遺伝子を残していくためにまずは生き残らなければならない。その次には相手も見つけなければならないし、更にはできた子どもを保護し養っていかなければならない。まあ、難しいよね。

ここ200年で一気に世界人口が増えた背景には、それが起きるだけの社会制度の整備や技術革新が起こったことなどが挙げられる。そう、本当に最近になってやっと多くの地域で人間が右肩上がりに繁殖できる程度の社会が出来上がった。

 

そして今私は21世紀という、昔と比べたら格段に行きやすいであろう社会の中で生きることを許されている。

 

だからこそ先人の多大な労に感謝しつつ生きているわけだが、大学生になって時間に余裕が出来たからか、最近「幸福」について考えている。

幸福とはなんでしょうか。人間も蟻やペンギンのように一生物に過ぎず、その最たる違いと言えば知能ぐらいではないだろうか。人間がいくら知能に秀でていようが、進化するということが基本的な最大目標であることに変わりはない。

「基本的な」と言うのは、これが人間の面白いところだが、自身の求めるものを限りなく追求でき、進化とはおよそ関係のなさそうな事を最大目標にできるからである。といっても進化と似たようなものもあるが。例えば歴史に名を残すことそれ自体を目標にしたりとか。

 

閑話休題、結局のところ、基本的には「幸福」というのは進化の流れが安定している状態を指すとは言えないだろうか。なんだか夢もへったくれもないような定義に見えるが私にはそこまで外れていないように見える、私にとってはだが。(別にこれ以外の状態を幸福とは言わないと言いたいわけではないです。後から自分が言っていることがおかしいと気づきましたごめんなさい。)

所詮一生物なのに、結果的に知性を持つに至ったに過ぎないのに、なんでもともと高尚な何かを私たちは持っているのだと考えられるのだろうか。私はそれを常々疑問に思っている。

 

確かに、何か「高尚な理想の下我々は日々を生きているのだ」なんて言えたらどれだけ美しいでしょうか。

明確な目的、理想があるとそれだけ生きやすい、何を受け入れるべきか、何を受け入れるべきではないかがはっきりしている。そんな風に屹立として生きることができれば確かに生きやすいでしょうね。楽ですから。だから美しく見えるのかもしれません。

 

しかし、皆さん御存知の通り、人間はそんなに上手く生きることができない。悩みが完全に100%ない人っていませんよね?人は人である時点で何らかの考えを持たずに生きることができない。だからこそ齟齬が生じるのは仕方がない。そのために社会的関係において人々は悩み続ける。

 

私には社会的関係というのが人にしか適用されないというのがいまいちよくわからなくて、社会的関係って他の生物や環境もその範囲内に入れることができないのでしょうかね。人間は人間だけで成り立っているわけではないですし。自然と人間とを分ける必要ってあるんですかね。私はないと思いますが。

 

 

それはさておき、結局のところ人間がより良く生きるために社会制度があり、技術がある。つまり、これらの最終目標は進化の促進にほかならない。

でなければ福祉国家がトレンドになんてなりませんよね。個人の人権が保証されるなんてことはありませんよね。

 

日本を例にあげよう。

一夫一妻であれば自由に誰でも結婚することを許された社会(LGBT問題はここでは置いておく)、そこでは食べ物が日夜工場、または手作業で作られており、いつでもどこでも手に入る。というか大量の廃棄処分が発生するほど作ってる。それに安全な家があり、法整備もそれなりにととのっており不法侵入の恐れもあまりない。更には仕事も完全に0というわけではない。まあ、近年格差が一気に広まりつつあったり人口減少が著しくなってきてはいるが、だからといって直ちに日本にいる全ての人が干上がるわけではない、長期的に見て考えるべき問題だけども。政治状況もまあ、最近はテロ等準備罪とか憲法改正とかはっちゃけている自民党もい与党もとい安倍総理大臣ではあるが、日本人がちゃんと立ち上がってくれるものと信じている。

このように日本はまだまだ多くの問題を抱えているが、個人の観点から見れば日本は生きにくいとは言いにくい程度には生きやすい世の中になっている。

 

 つまり、進化し易い環境なのである。

しかし、現実はそう甘くはない。あくまで環境がそうなだけであってじゃあ問題なく日々を幸せに生きていけるかと言うとそんなことはない。人間と人間の関わり合いが結局のところ大きな問題であって、その環境はあくまで人々が乗っかる台でしかないからだ。当然台が平らであればあるほど、人との関わり合いが重要になってくる。と言っても大きな凸凹があって隣の人の顔が見えなくても、それでだれかとコミュニケーションを取れない何ていう時代ではない。インターネット恐るべし。

 

 

なんだか変な方向へとずれていっている気がするので本題に戻ろう。

なぜ「成長」する事を半ば強制されるのか。

 

それは進化の促進のためだからであろう。

なんださっきも言っていたじゃないかという非難が聞こえるが、今の私にはそれ以外に考えられない。視野が狭いとも言うが。

何のために働くか、それは生きるために。

労動とはなにか、それは生きる為の手段である。

果たしてそうだろうか。それだけであろうか、特に後者。

言ってしまえば現在において、労動は私企業「が」生きるための一道具に成り下がってはいないだろうか。そしてその労動を行う人間は消耗品となってはいないだろうか。人間が自身が作ったものに翻弄されるとはなんたる本末転倒、主客転倒であろうか。

 

「長期的な成長」、確かに聞こえは良い、しかしそれは結局のところ、「私達だけが」長期的に成長するというカッコつきにすぎない。だからこそ企業は常に同業他社を打ち負かさんと日々経営戦略を練り実践している。でないと自身が潰されるからだ。

自ら潰しにかからないといつ自分が潰されるかわからない。

ビジネスの世界はある意味で原始状態のような世界とも言える。私たちの多くはこのような世界のある生物の栄養源として摂取されて排泄される。それで私達の役割は終わり、土へ還る。

 

そんな排他的な残酷な世界で私は生きていくことができるのだろうか。心配でならない。私はできれば誰とも争いたくない。

 

そもそも「成長」というのは絶対的に称揚されるべきものといえるのだろうか。

私にはそれが分からない。そのもっともわかりやすい例が原子力発電所であろう。あれはまさに使い方を一つ間違えるだけで大量の死者が出る事故に繋がりかねない。これもある種人間の技術の「成長」の結果にほかならない。

 

だから、「成長」というのは意図して起こす必要はないものと思っている。結果的に、二次的に、付随的に起きるものだと思っている。

急過ぎる成長は必要ない。なぜなら、人間の幸福、つまり進化が寧ろ阻害される可能性があるからである。もう一度原子力発電所の例を挙げると、人々が大量に死に、環境も破壊される、こんなことは誰だって起こってほしくないだろう。我々がこれからも進化できるかどうかに対してマイナスの影響を与えているのだから。だからこそ、本来なら環境に悪影響を与えない再生可能な持続的エネルギーでもって発電すべきなのだが、現在全ての電力を賄えるほどの技術の「成長」には至っていない。つまり「成長」の方向を間違えてきたとも言える。

 

まとめれば、ある程度安定した進化の流れを確保できているのであれば、漸次的な成長はあるにせよ、それ以上の速度での成長は必要ないものと思う。それに現在進んでいる成長に長期的に見て問題がないか常に監視し続けなければならない。

これは「今となってはこれ以上猛スピードで成長し続けても人類だけでなく自然すらも破壊してメチャクチャなことになるからその速度落とそ、ね?」という単純な話です。単純だからこそこんな理想が複雑な人間によって達成される日が来るかは神のみぞ知るだが。

 

ここまでババっと書いてみて、自分は具体的に物事を書くことができないのだな実感するのですが、それはさておき。

 

 そろそろ「お前にとっての幸福って具体的にどういう状態をさすんじゃい!さっきから曖昧なこと言いやがって!!」という非難が聞こえてくる気がするのですが、まあどうしましょう。

 

基本的に安定した進化の流れというのは、家族や友人や親戚との関係が良好であり、子どもがいる場合子どもを養っていけるだけの金を稼げていて、特に何かに縛られること無くのほほんと暮らしている状態というのが私の解釈です。

 人によっては刺激が足りないとか、まさにこれこそが理想やとか、絶対無理やわこんな生活とか色々あるでしょうが、まあ私はこういうのが幸福なんじゃないかなあと思ったりしているわけです。

 

ここでやっと 記事タイトルに触れる事が出来ました。

前置きが長くてごめんなさい。

 

まず「らき☆すた」ですが、ニコニコ動画で7月14日まで全話無料で見れるんですよね。それで折角だし見てみようかなと思って見てみたんです。

この記事を見て察しているかもしれませんがどっぷりとハマってしまったのです。ああ、こんな緩い日常が毎日続けばどれだけ幸せなことだろうか思ったのです。

そこでは他を押しつぶす為の「成長」など必要ない。ただ誰かとの他愛のない、しかし親しみのこもった会話そのものが「幸福」の源になっている。

日常系アニメだから当たり前っちゃあ当たり前なのかもしれないのですが、このような当たり前にスパイスを加えたものが売れているということは、つまりそれだけその当たり前ができていない証拠でもありそれが渇望されているということです。美少女というインセンティブ付きではありますが。

幸福というのは少なくとも無限に何かを欲することではないはずですし、仮にそうだとしたら永遠に幸せにはなれないでしょう。私からすれば、欲することそのものが幸福というのは哀れと言わざるを得ません。永遠に幸福にはなれないのですから。むしろ永遠に苦しみ続けるし、永遠に戦い続けることになるでしょう。

だから私はできるだけ物を欲さず、必要なものを必要なだけ、できるだけ少なくという風にして消費活動を行っています。それに既に今あるものを大切にしたり、積極的に友人を作るというのはあまりしませんが、人間関係もできるだけ円満であるように努力もしています。幸せと言うのは案外近くにあるんです。桃源郷ではないと思います。

 

これはらき☆すたである必要性は無いかもしれませんね。雰囲気だけで言えば同じような作品はありますから。決してらき☆すたを貶したいわけではなくむしろ好きです。

にらき☆すただけでなく、日常系のフィクションというのは案外得られる教訓があるのでそういう視点から見るのも良いですよ。

 

 

次に「けものフレンズ」ですね。

いきなり自分なりの見方に入らさせていただきます。ここでは考察と言うよりか少し観念的な見方をします。

彼女達は人間がいなくなったと思われるジャパリパーク内において生活している。そこでは人間ではなくラッキービースト(行こうラビと略す)が彼女たちの世話をしている。ラビによる最大の恩恵はじゃぱりまんの供給と言える。彼女たちにとってはそれは常に死活問題だからだ。特にじゃぱりまん以外に食べられるものがない動物にとっては特に。

だから彼女達はラッキービーストに依存しているとも言えるが、自分なりに言い換えてみると、それだけ楽に生きれるだけの社会制度を持っているとも言える。

そこに「成長」はない。しかし「幸福」はある。

彼女たちにとって「成長」という言葉恐らく頭のどこを探しても見つからないだろう。なぜなら必要ないから。十人十色、みんなそれぞれ苦手な所、得意な所があり、役割分担すれば良いだけなのだから。それに彼女たちは皆実に素直であったり、包容力があったりする。皆が皆を認め合い、包容しあい、助け合う。それはセルリアンが襲ってきても変わらない。

自然の掟ということをカバは言っていたが、それではアニマルガールの特色が一つ消え失せるとも言える。なぜならレンズでなければ絶対に有り得ない能力、人間の言語を手に入れたにも関わらずそれを有効利用するなと言うのだから(彼女は建前として言っただけだと思うが)。

 

言語力があれば当然動物間でコミュニケーションが起こることは予想される。そこには当然人間と同じように齟齬があってもおかしくはない。しかしアニメを見るにそれはあまり起こっていないようだ。果たしてそれはなぜだろうか。動物がいきなり言語力を手に入れたとしても、普通は他の動物に対しても以前と変わらず排他的攻撃的であってもおかしくはない。しかしそんなことは起こっていない。なぜだろう。

 

ここで私は2つの考えを思いついたがここではより関係が深い方を紹介する。

なぜ彼女たちはみな優しいのだろうか。それは絶対的食料に悩まされることがないという安心がその根底にあるからではないだろうか。ジョージ秋山の「アシュラ」では食べ物を得ることのできない人間がいかに悍ましい獣になってしまうかを克明に描いている。その変貌ぶりを獣フレンズに当てはめてみると、これは実に適合しているように見える。

彼女たちは絶対に食料に困ることはない。そういう絶対的安心を提供してくれる基盤があるからこそ彼女たちはあのように日々自分のやりたい事をできている。

 

現実に戻ってこよう。

まず何よりも食料調達と供給を重視する社会制度にする必要があるのではないだろうか。といっても、この記事タイトルの本旨とはずれているのでこれ以上は述べることができないし、これ以上述べることができる能力もない。

 

まとめ

  •  「成長」というのは特に進化の促進という意味において価値がある。そしてそれは私企業が存在する世界の性質のために半ば強制される。しかし私はそれには同意しない。私は漸次的成長で良いと考えている。
  • 幸福というのは進化の流れが安定している状態のことである。大いなる目標を達成するとか、世紀の大発見をするといったような大仰なものではない。身近にあるものであり、誰の手にも届くものである。本文には書いていないが、それは心の平静も安定状態と言える。